私の生い立ちと信条
井上健二
1949年10月13日生まれ。出生地は現住所。今も寝ている部屋にて。大正7年生まれの父と同10年生まれの母の、6年上の兄と3年上の姉の次の第3子として。
このすぐ前に父が国鉄を解雇され、官舎を出て行くあてのない中で、戦後賭場として使われていたらしい借家にとりあえずということで住み着いた家らしい。来た頃は寝ていながら星が見えていたとの母の弁。
元々、父は父で大阪商大(現在の大阪市大)を出た上で国鉄の研修所へ行ったから(普通この研修所は高校から国鉄に入った人たちのためのものだったらしい)、そういう意味ではエリートというか幹部候補生だったらしい。将来は京都駅の駅長にもというほどの立場であったらしいが、進駐軍の通訳をしていたとはいえ、実際は米軍人へのパンパンの世話などの仕事をさせられていたらしい。現在の総評事務局長の木島氏によると国労京都支部の委員長でもあったらしい。後でも触れることになるが、父の性格からすると、こういう仕事は耐えられなかったのであろう。母によると、こんな仕事が父をして組合活動に走らせた動機ということらしいが、私はもっと本質的な動機があったと思いたい。
元来、この父の父(私の祖父)は、西日本の国鉄の機関区の区長を7つ程歴任したぐらいの幹部で、その息子でしかも当時「神童」と呼ばれていたぐらい出来がよかったそうだから、そのエリートぶりも相当なものであったらしい。息子が首になるという時には祖父もかなりあちこち奔走したそうであるが、かなわぬことであった。父にしても、相当な思想闘争であったと思われる。身体は、兵隊の検査の時に「即帰」(即日帰郷)と言われてしまうほど弱く、すでに学生時代から、かっ血したりしていたとのこと。登山が好きであったらしい。
一方、母は母で、安寧校から市立高等二条女学校(現在の上京中学校)出身。6人兄弟姉妹の末っ子で、その両親はともにすでに母が10代のうちに他界したが、父はそれなりの名士であったらしく、私の叔父である長兄(現在も健在)は地理、次兄(どういう偶然か、母の亡くなる直前に死去。母には伝えていないままであったが、残っているこの兄弟姉妹の間では、あの2人は小さい時から仲が良かったから死期がほぼ同じであったことに何か因縁めいたものを感じている)は物理のそれぞれ専門家であるなど、それなりの格式と教育を備えた家庭であったようである。
私の両親の結び付きもこの長兄と父との学問的な付き合いから父がこの母宅へ出入りするようになったことが縁の始まりらしい。戦争の真っ只中であったろうに、母の姉の弁によると「あっけらかんと好きだ好きだ」と言っていたということらしいから、母もその意味では後述するように、いい意味での良家の素直さというものを持った女性であったのであろう。こうして、この2人の結び付きは、暗い時代であったとはいえ、今日で言う中流家庭同士の幸福に満ちたものであったに違いない。
資本論の冒頭に「誠実で高潔で勇敢な友の…に捧げる」とある。正に父はこういう形容がぴったりとくるような人であった。正に戦後の激動と特にこの時代を特徴づけるアメリカの対日戦略―ゼネスト中止命令から一連のフレームアップ事件、「民主化同盟」、レッドパージなど―の中での父の生き様は、「魂の凡庸さに忍従しない人々にとって、生活は日々のたたかいである」というロマン・ローランの言葉をもってしても表現しえないほど、その誠実さの追求において、苦難に満ちたものであったであろう。まじめに生きようとすることが、一体、どうして賭場で星の見える家で暮らすことになってしまったのか。国鉄の祖父も、それなりの資力はあったものの、そのほとんどを現金で保有していたために、当時のインフレでたちまち減価してしまったらしい。
その後、父の生活は不詳。母は京都駅の小荷物の保険会社に勤め(現在の中央郵便局のあたりにあった。かすかに、その頃、駅前にはまだ人力車が並んでいたように思う)、私は2歳の頃から今もある東寺保育園に通っていた。その頃の保育園と言えば、貧乏人の子どもが行く所であるといったような感覚があったように思われる。
甘えんぼうであったのであろう。私が保育園を抜け出して、その京都駅の表口の母の職場へそれまでの僅かな記憶を辿って行った折りにその職場の同僚が一様に驚いていたという話も後に母から聞かされたこともあるが、従って、小さい時から、どこかへ迷わずに行くということにかけては、相当に早熟であったようだ。
学生時代以降も、とにかく住所さえ分かれば京都市内ならどこでも捜しあてて赤旗新聞などを勧めに行くという生活を続けているが、こういう感覚はすでに当時からのもののようである。母が梅小路の購買部に勤めていた時にも一度尋ねたことがあって、やはり歳の小さいのに迷わずに来たということに驚かれたという話も聞いたことがある。年長の頃には、小学校には夏休みがあるのに何故保育園にはないのだろうと、自分勝手に休みを作って1人で東寺で遊んでいたこともあった。
1956年、南大内小学校入学。地味でおとなしい生徒であったようであるが、3〜4年生頃から学級委員をしたりクラス新聞を作ったりかなり活発な様子であった。現在の教育と較べてどうかは分からないが、当時の記憶としては、例えば、授業開始のチャイムが鳴ると学習係なるものが前に出て前回の復習をしたりその日の予習をしたりして先生が教室に到着するまでの間の時間を過ごすのであるが、こういう係もやったり、また、毎日の教室の掃除が終わった後、みんなで一列に並んでその掃除の反省などをする折りにリーダーであったりしたのを覚えている。
6年生の時は児童会会長であったが、話の中身は全く覚えていないが、丁度原稿用紙1枚分の原稿を念のために用紙は机の上に置いていたが、結局一度も下を見ずにソラで喋ったことを覚えている。6年生の春の修学旅行の伊勢紀行は、20枚を書いた。
何度か、自由テーマで絵を描くという時に記憶にあるのは、ひとつは稲刈りの風景を描いて、今にして思えばその頃から働く人たちへの何らかの思いがあったのかどうか、またふたつには、頭と首と胴と尻尾などがそれぞれ違う動物の寄せ集めという架空の動物を描いて、これは絵の技術としては失敗であったが、こういうものを描いた動機は、いろいろな友だちが、みんな一体のように仲よくしようというものであった、という絵を描いたことである。
また、当時、町内会の活動が地蔵盆や季節毎のハイキングなど今日とは比較にならないほど活発であったことにもよるが、各町内の代表が集まって学区の会議を開き、また学区の代表が集まって南区の会議を開き、区の代表がまた集まって市の政治のあり方を論じるような方法が、そのそれぞれの段階での代議制民主主義が保障されれば、これはもっとも民主的な政治のあり方ではないだろうかなどと、おぼろげに考えていたこともある。
近所のおばさんが、ある選挙の時に竹内候補が家の近所だから入れると話していたのを聞いて、ただ近所だからというだけではおかしいのではないかと思ったこともある。
貧富の差が何故あるのかという疑問もこの頃からのものであった。高槻に転居する前のことであるから、これらはみな6年生の10月までの思い出である。
さて、この小学校の頃から、父は民主的な書籍を普及するという目的でミレー書房を作った。当時から京都のそこらの病院はひと通り総ナメしたというほどあちこちへの入退院を繰り返していたが、その合間を縫ってのことであったようである。とにかくちょっとよくなっては働き、また悪くなっては入院するということの繰り返しであった。身体を大事にしてほしいという思いと金をもって帰らないということとが重なっていたのであろう。母が泣きながら、しょっちゅう夫婦喧嘩をしていたことを思い出す。そのくせ一旦入院すると、母は毎晩のように私たち子どもの手を引いて見舞に行った。今は市立病院と呼んでいるが、当時は京都病院といって、木造平屋建てで庭には草花や亀の泳ぐ用水池などがあった。あの薄暗い長い板張の廊下は今でもはっきりと記憶にある。松原通りに正門があったが、自宅からはたいてい徒歩での行き帰りであった。
当時、時々、制服の警察官が家に来て鉄砲などを見せていたのも覚えているがそのうちに来なくなった。後年、母の話によると、お父さんが大変だろうから力になりたいなどと親切ごかしを言っていたが、ある日、お父さんの持っている書類などがあれば見せてくれと言ったのでキッパリ断って怒ったらそれきり来なくなったということであった。
あれだけ夫婦で喧嘩をして父の活動に無理解であったような母でも、やはりそれまでにも私たち子どもに夫から聞いている話―今の世の中は金持ちばかりが得をするようにできているとか、働くことがいかに尊いことであるとか―をしてくれていた母であったればこそ、そこはやはり父の妻であった。
後に私が活動するようになってからも、そのこと自体には全く反対はしなかったけれども、身体だけは絶対に無理をするなと言い続けてきていたし、私が結婚してからも「美子さんには迷惑をかけるな」ということをくどいほど言っていた。ついでに言えば、妻の美子もまた母と同じようにそれなりの家庭の出身で、男ばかりの5人に囲まれた唯一の女性で大切にされ、少なくとも私のように破れた服や穴のあいた草履で育ったというわけではなかった。思うに、一体人間の素直さ、おおらかさというものは、苦労して得られるものではなくて、やはり豊な環境の中で育てられてこそ身につくのであって、この意味で自分で言うのも変であるが、幼少の頃の苦労や貧困が人間を鍛えるかのような、よくあるありふれた伝記もののような類の話は一般性を持たないのであって、更に言えば、所謂窮乏化革命論というのは正しくないのである。嬉しい時には大声で笑い、悲しい時には涙を流して泣くのは人間の本性であって、この点で私などが時として「ゴルゴ13」に似ているなどと評されるのは、そういう素直さに欠けている面を衝かれたものであって、その所以は、やはり自分ではその生い立ちにあると考えている。
また、現在形で言えば、仕事が忙し過ぎたり課題に追われ過ぎたりするのもよくない。前者は、そういう総括をすることによってその克服は可能であるし、後者もまた、これは現在のことであるから、その克服もまた可能なのである。こういう自覚によって、今、私は素直になりつつあるし、これをもっと深めて、謙虚さだとか、かといって卑屈ではない、などのモラルというか生き方を追求したい。
前述の資本論の中での言葉はそういう意味で私の好きな徳性である。そもそもが、後でも触れることになるであろうが、私がこの道に入ったのは、こういう生き方の追求であった。良心的な生き方、人間に対する愛情、これらはその突き詰めた先には党しかないのであって、こういう点では、後に私のこういう道への大きなきっかけとなったのが石川啄木や柳田謙十郎、河上肇などの人たちであったことにも通じるのである。
従って私の場合、今日強調されている社会主義的民主主義などというのも理論以前のあたり前のことであって、むしろ、人道主義・民主主義の追究を極めればその先に社会主義があるという順序で物事を考えてきたというタイプである。
しかしこれは逆にいえば、自分にとってはあたり前のことだけに、全くそう思っていない人たちに対する説得力に欠けるという弱点ともなりうる。学習の必要性を痛感させられる次第である。
祖父の関係でそれ以後も国鉄とはいろいろな繋がりが残っていたが、小学校の2〜3年生の頃からであったろうか。国鉄の購買部などの物資を扱っていた田村産業というところへ母が勤め始めていた。吹田の官舎の購買であった。いつも夕方になると母が帰ってくるのを待ちきれずに、西大路駅でこの電車か次の電車かと改札の外で時間を過ごしたことも昨日のことのように覚えている。
小学校へ入る前の頃には保育園へもほとんど行かずに、当時関西一円はフリーパスであった祖父にあちこちへ汽車や電車に乗って連れていってもらっていたから(つまり2人はどこへ行ってもタダなのであった)、吹田がどのあたりかということも知らないわけではなかった。この田村産業は、その後、国鉄職員の寮の賄いなどを一手に引き受けて急成長するのであるが、丁度この田村氏が高槻に開かれた大衆食堂を母にやってくれということから、私たち家族4人が京都の借家(というより京都病院)に父を1人残して移ったのが1961年、6年生の10月であった。兄と姉はそれぞれ高校と中学の3年生であったからそのまま通学したが、私は残り半年とはいえ、高槻市立如是小学校というところへ転校した。
南大内では5組まであったのがここではどの学年も2組までしかないこと、校舎がすべて平屋であったことなども驚きであったが、何よりもびっくりしたのは、休憩時間が終わるチャイムが鳴ってもみんな平然と運動場で遊び続け、職員室から教室への渡り廊下に先生の姿が見えてからあわてて戻るという様であったことや、ドッジボールなどの鬼に対して「死刑」という罰があることは京都でも同じであったが、京都ではボールを頭に当ててしまうと、その投げた方が今度は罪のために鬼になって死刑をくらうのであるが、ここでは何とオマケとしてもう一投できるということなどである。その他のゲームのルールにしても、どうも京都から来た私にとってみればズルイ手がここでは合法であったり乱暴なやり方が公認されたりしていた。
それでも級友たちは、この新しい転校生に対して、みんな仲よくやってくれた。ここでは修学旅行は秋に行く慣わしであったので、私はこの年、伊勢には2回行くことができた。翌春、市立第4中学校へ入学。ここでの3年間は、ある意味ではまだ、より大人には遠いにも拘らず、高校の3年間よりもその後の私にとっては、影響が大きいというか波乱万丈の年月であった。
同和地域の学校ということで給食もあったし、また級友が「町の友だちとの間には高いカベがある」などとノートに書き「そんなことがあるか」と言い「私らの気持は井上には分からん」「いいやわからんことない」などというようなやりとりのある所であった。こういうことが分かってきたのは3年生になってからであるが、それまでにも例えば2年生の時に授業の終わり間際に先生が「今日の授業が分からなかった者は?フーンまだ何人かいるな」そこで私「先生、フーンじゃないぞ。分からん者が1人でもいたら分かるまで教えるのが先生の役目じゃないか」と言ってみたり、かと思えば「何のために勉強するのか」と質問してまた別の先生を困らせたり、また新聞配達をしている級友が居眠りしているのを見かねてその配達を手伝ってやったり、また学校を休んでアルバイトへ行っていた友だちの家へ尋ねて行ったりなどと、とにかく、野球部をやりながらも日常がこんな生活の連続であった。
暴力事件があったり、そのくせ校舎の増築に来ている飯場の労働者が、ドラム缶の火にあたりながら私たち中学生に対して、同僚のある労働者のことを「彼はどうも社会主義者だなあ」などと否定的な感じでもなく喋っていたり、あるいは、ある級友の家へ遊びに行った折りにそこの両親が「彼はアカだ」「いや頭がよすぎるだけだ」などとまた別の級友のことを評してそんな話をしていたり、とにかくそういう雰囲気であった。この「アカ」君と私となどの数人がある先生の家に招かれて「やがて中国が大きくなる」とかの話を聞いたりもした。
この先生はクラス活動などにも非常に熱心であった。当時この先生は「君は京都大学へ行って弁護士になれ」と家まで来て言われたのを今でも覚えているが、私の答えは「あんな大学は世の中を牛耳るエリート官僚のための大学だ」というものであった。
同和問題については、この先生からいろいろと説明を受けた。1人で京都まで「千里馬」という映画を見に来たのも3年生の時であった。
父を亡くしたのはこの2年生の時、1963年であった。田村食堂の2階と裏とで暮らしていた祖父も、息子に先立たれてからはすっかり精気を無くしたままの1年を過ごした後、あとを追った。
貧しい地域でもあったし、校内暴力なども今なんかよりももっと質が違っていた。スパナとかチェーンとかをポケットに忍ばせているのもいた。そして何よりもまた今日の中学生では考えられないほど早熟な仲間がいた。
私には高校への受験だけを目的にしているかのような授業やそういう仲間への反発もあったし、学力テストを白紙で出したりもした。何よりも、卒業してすぐに就職する仲間たちに対して申し訳がないというか、自分は何とはなしに高校へ行くのが既成事実であるかのような感覚が嫌であった。従って、勉強に身がはいらないのは当然であった。
それでも、父の再来だと小学校時代の私の成績が自慢の種であった母にとってみれば、その期待は大きいものであった。
しかし私は、よく言うところの「子どもの頃はよくできるが大きくなればタダの人」の典型のようなもので、これはしかし、私がたまたまこの頃からあまり勉強しなくなったという個人的な原因に因ることもあるが、上の言葉がよく使われるように、教育過程の失敗による法則性をもったものである。私などと違ってそれなりに勉強してきた人でもこうなってしまうのがいるのは、こういう法則によるのである。
とにもかくにも、結果的には大阪府立春日丘高校というところへ進学。1965年。所在ないままに、中学時代にやっていたということで勧誘を受けて野球部へ。元々は、小さい頃からの遊びといえば相撲かソフトボールであったが、中学で野球をやったので高校では相撲という気もあったのであるが、春日丘には相撲部がなかった。中学生の中頃からそれなりに背は伸びていたが、それでもごく普通であったから、人から見れば仮に部があったとしても、えっと驚くような第1志望ではあったであろう。
しかし自分では見られた目よりも腰には自信があった。とにかくソフトボールとともに、相撲もよくやってきていたからである。こうして、弁論大会で受験偏重の教育はおかしいと主張したり文化祭や体育祭では実行委員や臨時の応援団を買って出たりしたが、結局は野球に明け暮れた3年間であった。社会に目を向けるという意味ではむしろ中学生時代の方がいろいろな経験をしたとも言えるほどである。
しかし逆に言えば、やはり順当なところからすれば中学時代が少々イビツなのであって、この春日丘時代はむしろ高校生活を今の表現でならenjoyしたとも言うべきであって、事実他の高校ほど受験一本槍でもなくまた、陸上やハンドボールなど相当強かったこともあったりして運動部もそれぞれに盛んであった。
我が野球部はといえば何年後かに甲子園へ出たり、2年後輩がベスト8まで行ったりしたが、私たちの時代にはベスト16が最高で(それでも当時から大阪には130ぐらいの高校野球部があった)、時期によっては10人ちょっとぐらいの部員しかいないような状態であった。そういう意味では技術に関係なく1年からレギュラーではあった。
男女交際なども盛んで、今にして思えば自由かったつというか、非常にいい雰囲気の学校であった。先生たちの質もよかったのであろう、毎年春になると組合敵視の活動家教師の強制配転があり、生徒会での反対集会も、いい先生行かないでくれという素朴な要素も含みながらも、恒例行事ともなっているほどであった。
今日、私が教訓とすべきは、とにかくぶっ倒れるような暑い日も身を切るような寒い日も、よくあんな練習にとにもかくにも耐えてきたということであり、どんな困難や苦しいことがあっても頑張り通す、苦しい時ほど頑張るということである。「民主的根性」という言葉は、後年、私が党活動にかかわってから当時のことを思い出して考え出した言葉である。
捕手としてはヒョロ長いタイプであったが、今日175cm・75kg、ほとんど病気らしい病気もしなくて済んでいる基礎は、この猛練習の賜物ではないかと思っているが、過信禁物であろうか。健康家の不養生をそろそろ戒めなければならない年ではある。
それなりに専門書なども読んだし、また今もプロ野球選手などの著作物も読む。それなりにうるさいし、いろいろ今日の野球やその他のスポーツについても、一家言を持っている。機会があれば「野球のおもしろさと弁証法」または「野球と階級闘争」「野球と労働組合の戦術」などの類の文章を書いてみたいと思っている。
野球についてもう一点。2年の夏からまさに突然肩が急に強くなった。成長のS字曲線の文字通り典型のような印象であった。これも、実は思い起こせばそうなっただけの必然性が発見できるのであって、これは哲学で言う質的発展の体験であった。打撃技術の関しては、これは未だにジグザグのままではあるが。というより退歩してしまっているが。
さてしかし、いよいよ卒業も間近になると、進路のことともに、やはりまた勉強とか進学とかの意味というか意義などへの疑問といったものが頭をもたげてきた。
また進学するにしても学費と相談しないわけにもいかなかった。何故かその頃は中国語をやりたかったが、こんな中途半端な気持で受かるはずはなかった。
それから2年間は美松のウエイターとかゴルフ場のキャディとか、また凸版印刷やアサヒビール、その他の臨時採用やアルバイトに精を出し、また悪かった鼻の手術もした。要するに浪人生活であったが、2年目の夏頃から「勉強したくても行けない人たちのためにも、誰でもが行けるように、そんな大学をつくるためにこそ、自分は大学へ行こう」というように気持が固まってきたし、またこれまでの生い立ちからいっても、福祉の道へ進もうと心が決まってきた。こうして2年遅れで府立大学へ入学したのが1970年春であった。
しかし、よく言えばすばらしいのであるが、悪く言えば気が多いのか、この前年の秋、小学校時代の同級生に誘われて20歳の誕生日に民青同盟に加盟。受験を間近に控ながら「人民の哲学」の学習会をしたり69年暮れの総選挙にとりくんだりして殿田や胡麻方面へビラまきに行ったりしていた。府大ではすでに3月中に入学手続だけを済ますと早速これから先輩になる人たちと知事選挙にとりくんだ。とにかく激烈な選挙であった。
選挙で蜷川6選を勝ちとってから入学式。とにかく70年安保ということで、普通の新入生のようにやっと入学できたとか受験から解放されたとか言うより、頻繁に集会などに顔を出していた。高校での経験ということで野球部から熱心な勧誘を受けたが、私の対応は「したいと思う人が誰でもいつでも野球ができるような社会を作る為に力を注ぎたいので」というものであった。今にして思えば極左的というか教条的というか、先輩からもケッペキすぎると言われていた。
クラス活動にもとりくむ。また生協組織部の活動も。暴力学生もたくさんいたが、私は、当時は非暴力(正当防衛権というのは当時は考えなかった)も貫いていたし、また彼らに対する認識も甘くて「話せば分かる」という対応であった。話しても分からないと分かってきたのは2〜3回生になってからである。生協の組織部として食堂の食券売りなどもやった。6月総代会で理事。11月総代会で常任理事。入学当初は唯物論研究会や家永訴訟支援の会などに出入りしていたし、またコーラス部!?でアコもやりかけたが、やがて生協1本になってしまった。
8月に入党。勉強の方は、私は貧乏退治で福祉を選んだのに心理学のようなことばかりなので面白くなく、もっぱら1人や民青などでマルクス・エンゲルス・レーニンなどばかりを読んでいた。こうして1〜2回生は生協、3〜4回生の時は自治会の委員長をやって、5年目は民青同盟の東地区委で活動(1年留年)。
要するに私の学徒としての5年間は、福祉が没階級的・超階級的に論じられるか、階級対立の中で捉えられるかどうか、また福祉の課題をつきつめていけば、「搾取」という問題に行きつかない訳にいかないと思うのであるが、ここへ到達できるかどうか。従って率直に、結局、活動が忙しかったこともあって、講義を受けたりするという意味では熱心な学生ではなかった。
これは最大の反省のひとつではあるが。母子家庭奨学資金と植物園などでの宿直などアルバイトで生活費、授業料は賄えた。それでもこの頃から食事もサイフと相談する有様であった。家には寝に帰るだけでそれも毎日ではなかった。母は顔を合わすと「早く帰ってこい。ムリをするな」の連続であった。
在学中に姉が嫁ぎ、兄も遠方へ就職していたので母の夕食はいつも1人であった。淋しい思いをさせた。
1975年3月卒。4月に京都市社会福祉協議会へ。直ちに日本社会福祉労働組合にも加入。
この市社協は、いわゆる地域の有力者の人たちを相手にするところで、共産党の悪口などにも猫をかぶって相づちを打ってつき合っていた。2年間は非常にいい経験であったが、この間のことは改めてまとめてみたいと思っている。
要するに、今日の保守の基盤がいかに重層的に構成されているかという点と、他方では、これら体育振興会とか地域婦人会とか民生委員さんたちが、統一戦線の一翼を担いうるような条件は何であって、どうそういう段階へ接近させうるのかという問題意識であった。
77年春に日本社会福祉労働組合(現福祉保育労働組合)の専従に。翌78年夏に京都支部の書記長と本部の中執に。86年から87年にかけて組合が今日の福祉保育労組に合併・組織替えをしてからも、京都地本の書記長と本部中執。この89年夏に本部中執は降りる(別に理由はない。単なる任務分担として)。役職上は以上の通り。
組合時代のことを書くにはあまりにも時間がなさすぎます(目下のところとしては)。とにかく(科学的には不正確な内容も多くてもっと厳密に書き改めなければならないと思いますが)、組合員向けのテキストの第1次原稿を、以下、私の十数年のとりあえずのまとめとして同封し、今回の時間不足のフォローとします。
☆☆
人間は誰でも前を歩いている人がハンカチを落としたら声をかける。ではなぜ一所懸命に働いているのに生活が苦しい人には声をかけないのだろうか。
要するに私の問題意識はこういうところから出発したし、またこれは今もその通りです。
ただ、20年近くも共産党の活動をやってきて、単なる人道主義・博愛主義だけではダメだということもよく分かっているつもりです。しかし、組織論を強調しすぎるあまり、当初の、こういう素朴な気持が薄れていくような気もしています。
いろんな人の気持を大切にしたいということと、課題は課題で遂行しなければならないという点については、今後とももっと修行も積んで深めていきたいと思っています。
☆☆
戦争や事故で肉親を失った人は、二度と戦争やそんな事故は無くしたいと考えるでしょう。そして私は、1985年に母を亡くした時に、その原因であったガンを克服する方途を見出したいという考えとともに、母のような苦労をなめて人生を終わる人がこの世の中からなくなるようにということを、改めて痛切に感じたものです。
それ以前からもそうですが、一層強く、今もこの考えは私のバックボーンになっています。