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我有り故に我思う

2017年05月11日(木)

残業手当について

No.218

 高度プロフェッショナルとかホワイトカラーエグゼンプションとか、要するに残業しても残業手当を払わなくてもいいように、労基法を改悪しようとの安倍内閣の狙いとのこと。最初は年収が一千万円余りの労働者に限るとしても、一旦こんな仕組みを許してしまえば、後は政府だけの勝手な判断で、その年収基準を引き下げていけば、やがてその被害が及ぶ対象労働者はドンドン増えていく。長時間過密労働は必至。過労死蔓延社会の異常!!。
 残業しなくても生活できる賃金を得ること、サービス残業などは論外、等々、論点はいろいろあるが、もう一歩、突っ込んで考えたい。
 残業手当は、時間当たり賃金の125%とか深夜の場合150%等々の割り増し賃金のことであるが、そもそも、では時間当たり賃金とは何か。通常、月極め賃金の場合、一ヶ月何円の賃金等として決められるとすれば、その賃金額を一ヶ月の労働時間数で割った額が、当然、時間賃金であるが、では一ヶ月の賃金は、何故○○円なのであろうか。
 ここから、この問題を「サービス残業をやめさせよう」「残業手当をきちんと払え」だけでなく、認識と運動をもっと質的に引き上げなければならないことがあきらかになってくる。
 いかんせん、今、次の用事の時間が迫ってきたので次回を期す。
 

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2017年04月30日(日)

過剰生産について

No.217

 いずれ深めなければならないテーマとして、過剰生産が、消費者の購買力(の小ささ、少なさ)に対しての過剰なのかどうか。従来のテキストでは専らそういう解説だと思う。消費者の多数を占める労働者の賃下げが資本の動機であり、一方、その同じ資本の本性として造った商品の販売も不可欠である。売らなければならないが、それを買うべき労働者の購買力は逆に低めるように動機付けられる…。資本主義の矛盾とは何ぞやという場合、それは社会的生産と私的個人的取得の矛盾だとか、生産の無政府性だとか、そして上の生産と販売の関係だとか、いろいろ言われてきていると思う。
 そこで私の疑問は、購買力に対しての過剰というより、ある種の商品にとっては、購買力に対してというより、最早、社会的絶対的に過剰生産なのではないかという点にあります。思うに、自動車なんかはその典型だと思いますが如何でしょうか。国民が、誰でも自動車を買うだけの購買力を得て、需要と供給のバランスが取れる、或いは供給される自動車が過剰になることなくその需要が賄われる、というような状態が想定されるとすれば、それは私見では最早自動車過剰社会であって、その分母は購買力というよりも社会環境そのものであると私は思います。
 ペットボトル然り、ある種のゲーム機然り。そしてこの考えを敷衍すると、勿論、戦争や原子力発電、ある種のコマーシャル等等も、購買力との関係という枠組みからは外れるかも知れないが、膨大な「過剰生産」であることは疑いを入れない。
 ちなみに、私見では、科学技術の発展が、即、人間の精神的活動・文化的活動の前進発展に直結するかどうかは、大いに疑問を感じている昨今であります。
 全体として労働時間の大幅短縮が可能だし、社会的な膨大なムダを省けばそれは可能である。勿論それは結果であって、政治を変えることが、その為にも、先決であることは当然であるが。
 他日を期して、こういう点について整理したい。

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2017年04月30日(日)

日々、反省

No.216

 後になって、あの時こうすればよかったとかああ言えばよかったとか、常々そういう自問自答の繰り返しである。そこできょうは、ある経験を、自分自身の反省だけでなく、特にそれを人に話する場合は、どうその教訓を一般化するか普遍化するかということについて考えてみる。人と喋っている時、まして集団で議論している時などは、まず自分の経験談を披露する前に、喋っている話題や議論している議題、テーマが先にあることは当然のこと。従って、その話題やテーマの筋に沿ってそれを補強したり深めたり、そういうことの例示として自分の体験談を披露するというのが話に色を添える。既にある話題や議題と無関係であったりその例示の度合いが弱かったりすると、ややもするとその経験談自体が一人歩きして話題があらぬ方向へ行ったり、そもそも何についての話をしていたかの骨組みが忘れ去られたりすることがある。枝別れで話題が広がっていくのは必ずしも悪いことではないが、ヘタをすると脱線である。
 実はこういうことは、人と喋ったり皆で議論している時のことだけでなく、一人で考え事をしている時もそうである。脱線するとまとまらない。ある経験を思い出す、それを一般化する、それを今考えているテーマに沿って補強していく、そこで、今考えていることが深められていく。とにかく考えるべきこと反省すべきことが多くて、折角今後の方向性が見えてきたりいいアイデアが浮かんだりしても、それが例えば自転車に乗っているときなど信号が急に変わったりしたりすると、急に忘れてしまっって、折角今いい考えに至っていたのに何についての思考だったのか、一瞬、飛んでしまうこともある。それを思い出すのにまた時間がかってしまったりもする。
 そういうことも含めて、日々、反省と自問自答の毎日である。

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2017年04月13日(木)

労働組合の活動についての試論

No.215

その一部分、

1、組合員拡大の対象について

(1)職場の中で100%を目指す。本店だけでなく各支店や営業所等の単位  でも空白克服、3人以上、100%へと目指す。公務員の職場等では、労  働者の居る職場はたくさんに分散している。そのそれぞれの職場にて同   様。
(2)産別または関連職場にて同様。そのためにも労働組合は産別・個人加盟  が前提的原則。但し、企業内組合でも、同種の業種の他職場との仕事的・  組合的付き合いはあるはず。またはなくても造っていく必要もある。
(3)職域の他産業職場への働きかけも。職場の周りには、地域的に色々な職  場があるはず。朝ビラ等、日常的な働きかけを。地区労としての取組も。
(4)職場内外での非正規・不安定雇用労働者の組織化抜きに、正規労働者の  労働条件改善はあり得ない、との観点からの取組を進める。

2、組合員拡大の意義と上の対象認識を、幹部だけでなく、組合員全員の認識 になるよう、日常不断の組織内努力を。

3、「数の力」とか「組合員拡大なくして要求実現なし」等々、従来からのス ローガンの再発見・再認識を。日本の労働組合運動の再建、発展の不可欠の 課題であることの再討議を。幹部の皆さんとは、単なる「要求実現のため」 に留まらず、日本社会の民主的改革の為の不可欠の課題だとの角度からの議 論を、もっと深めたい。

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2016年01月12日(火)

野党共闘から団体共闘へ、運動共闘から政治共闘へ

No.206

 昨年から今年にかけての大きな特徴は、言うまでもなく、アベ内閣が、歴代自民党政権の先輩たちをも裏切って、憲法違反の安保関連法案=戦争法を強行採決したこと、一方、これに反対する世論と運動が空前の盛り上がりを見せ、しかも採決後も衰えることなくむしろ一層高揚していること、加えて、戦争反対・憲法守れとの要求から更に進んで、政治を変えよう、政府を変えようとの運動に発展していることだと思います。もっと言えば、その政府を変える為に、「野党は共闘」とのスローガンが掲げられ、この国民的世論にも応え、日本共産党の国民連合政府の提唱もご存じの通り。
 そこで私が更に今日的な特徴と思うのは、周知の通り、その後の「市民連合」の結成や熊本県での参院選統一候補の擁立など、単に野党の共闘を求める、或いはそれを目指す、また要求の為の共闘から「選挙の為の共闘を」というにとどまらず、市民団体自身が、「運動の」共闘組織の一構成団体から、更に「統一候補を擁立する政治的共闘組織の一員に」なりつつある、発展しつつあるという点に求められるということではないか。
 その点で、既存の労組・団体が、その諸活動の原点的出発点である身近で切実な要求実現をめざす活動とともに、その要求の根本的実現をめざす諸課題とを結合させる取り組みが切実に求められているのではないか。古いと言われるかもしれないが、経済闘争と政治闘争の結合である。
 国政選挙であっても、「ウチの委員長(会長)を統一戦線組織の代表として、政治的共闘組織の代表として、統一候補に擁立しよう、共闘組織の仲間の各団体の皆さんにも是非推薦したいので検討されたい…」といったような声や動きが出てきてもいいのではないか。各団体の議論に期待したい。昔、「実践の為の弁証法」という書物の中に「運動の先進性の程度を横軸に、その人数を縦軸にとるとすると、運動は菱形で進む」という意味のことが書かれていたことを覚えています。少数の先進的な人たちと多数の中間的な人たちと、また少数の「後からついてくる人たち(これから中間・先進へと成長発展していく人たち)」を菱形と形容されたもので、私には、この説をどう評価するかの能力はありませんが、一面で、そういうことが言い得るとすれば、上で書いたことについて、特に「先進」の人たちに、「政治闘争」の先頭に立って頑張ってもらいたいと期待したい。もっとも、経済闘争=中間的、政治闘争=先進的ということではなく、目の前の切実な経済闘争における先進性・階級性の度合いや程度の違いがあることもその通りですから、このあたりは自分でももう少し要検討だとの自覚はあります。いずれにせよ各団体労組の、特に役員諸兄姉の皆さんのご奮闘に敬意を表し、且つ大いに期待するところであります。
 「前衛」というのは「おごり」なのでしょうか。団体・労組の一員として活動する場合と、私などのように党そのものとして諸団体の皆さんと接する場合とがあると思いますが、国民や、また特に前者の場合、各団体労組等の構成員の要求実現の為に、目の前の要求実現の為の諸活動とともに、その根本的実現の道はどうあるべきかとの問題提起や提案をしつつ要求実現への道筋の討議を組織する、みんなの要求実現の為に献身的に誠実に努力するというようなことは、決して介入でも「振り回す」ことでもないと思いますが如何でしょうか。後者の場合は、当然、対等平等、内政不干渉、お互いの立場を尊重しつつ、誠実に一致点を探って、その一致点で力を合わせて共通の要求実現をめざすということになるでしょう。
 いずれにせよ、統一候補は、複数の政党のいずれかから出られて他の政党も推す、各団体も推す、というパターンだけでなく、政党からではなく、団体からの推薦・提案、団体人の擁立もありうるということを言いたい為の、以上、コラムでした。、

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