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2022年01月27日(木)

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」その5  「財政危機」、「地方自治の危機」から「新自由主義自治体」へ

No.229

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」 その5
「財政危機」、「地方自治の危機」から「新自由主義自治体」へ

 一昨年の秋頃から市の財政についていろいろ考えてきたが、市長が、いよいよ本格的に「改革計画」を具体化するに及び、実践的な議会での議論に追われてきた。落ち着いて考えることを怠っているうちにあっという間に半年が過ぎてしまった。前回「その4」で市長の「行財政改革計画案」について触れたが、その後の大まかな動きは次の如くであった。
 一万件近くの市民からの意見があったにも拘わらず、6月の「案」とほとんど変わらないままその「案」が取られ、8月に「計画」となって発表。その最初の具体化が「敬老乗車証」制度の大改悪であった。その後「学童保育利用料の大幅値上げ」(利用料という言い方にも疑問があるので、以下「保育料」)へと続き、併行して民間保育園職員人件費補助金の削減が、今、その詳細を明らかにしないまま着手されようとしている。障害福祉分野での補助金削減や市営住宅家賃減免制度の見直し等々、条例改正を経ること無く、今春の2022年度予算で具体化されようとしている項目も少なくない。

 昨春も21年度予算についての感想など書き並べてきたが、もう早くも一年が経ち、また22年度予算についても、また自分なりにその評価や分析を加えて頭の整理をしてみたい。その時期がもう間近に迫っている。ただその前に、昨秋あたりから感じてきたことについて、頭の中にだけではなく、文字にして残してもおきたい。今後の市政について考える上でも何らかの参考になるかも知れないし、自分なりに交通整理もしてみたい。書くことは考えることでもある。「言語は実践的な、…現実的な意識であ」る(M・E「ドイツ・イデオロギー」)。

 そのテーマのひとつは「受益者負担論」である。かつて1960年代だったと思うが、雑誌「経済」に「受益者負担というのはイデオロギー攻撃である」との旨の論文が掲載されていたとかすかな記憶がある。間違いかもしれない。しかしその趣旨は、今、市の言い分を聞くにつけ、まことにその通りだとの感が強い。医療にしろ学費にしろ、その他社会保障関係等、そもそも「益」でも無いし、権利として無料に近づけて行くのが社会発展の方向ではないか。「応益負担」という言い方自体からの再検討が要る。社会保険の場合、それ自体も軽減を目指すべきだが保険料を払っているから、まして一部負担は「二重取り」とも言うべきである。一般の損害保険等において、給付を受ける際に負担金支払いなどという話は聞いたことがない(医療保険について、芝田英昭立教大学教授は「我が国においても…『一部負担無料化』を真剣に議論すべき」と書いておられる(自治体研究社「医療保険一部負担の根拠を追う」'19/6/25)。また仮に「益」を前提として考えた場合でも、例えば保育・学童保育の分野では市は「受益者は親」と言うが、この点について、京都保育団体連絡会会長でもある藤井伸生華頂大学教授は「保育の真の受益者は企業主」だと喝破されておられる(「住民と自治」'21/1月号)。私も議会委員会での質問で紹介・引用させて頂いたが、もとより、市理事者にとってはそんな本質的理解にはほど遠く、噛み合った答弁は返ってこない。

 さて今一つのテーマは、今回新たに表題に書き加えた通り、一連の市政の事態の本質は、財政危機というよりも地方自治の危機、そして更に、単に危機というよりも、その危機が、「新自由主義自治体」とも言うべき方向へ行こうとしている、という点についてである。意識しているかしていないうちにかは断言できないが、客観的に市長が行こうとしているのは、正にそういう自治体に他ならないとの思いに、最近、至ったという次第である。
 これまで、市の、ある事業に、「その事業の直接の対象者以外の市民からの税金が注ぎ込まれている」という市の言い分に、それは市民間に対立と分断を煽るものだと私は批判してきた。敬老乗車証然り、国民健康保険然り、学童保育料然りである。また「市民が受けるサービスの水準と負担の水準の均衡」という市の考え方についても、「例えば動物園の運営費は入園料だけで賄われている訳ではない」と反論してきたが、これについては、「いや、これからは入園料だけで賄うのだ」と市長が新たに言い出してきていることについても紹介し、市長は既に私のはるか先を走っている、私の反論は最早時代遅れだと、市長の認識の、到達点ならぬ後退点、市政の悪さ加減の水準について、新たに認識させられた経過についても紹介した(主に「4」にて)。同時に「3」の項では、二宮厚美教授の論も紹介した。曰く「『市場ではサービス享受と負担とが照応するが、財政ではこれが一致せず大衆は負担を回避したまま給付だけは享受できるかのような錯覚が生まれる。これが赤字財政のもとである。この民主主義のいきすぎ論・財政錯覚論』が、ケインズ主義批判として登場し、ここからも財政守備範囲見直し・公共への市場メカニズム適用との新自由主義へと繋がっている…」。つまり、サービスと負担を照応させようとする、1:1対応させようとする考え方を新自由主義と定義するとすれば、正に市長のめざしているのはそういう自治体であるということになる。換言すれば、照応・対応させる考え方を貫く市政をめざそうとしている、これこそ新自由主義自治体と言うべきである、ということになろうか。
 事例を挙げる。21年10月から放置自転車の撤去保管料が「変わります」とか「改定」とかと言っているが、要するに値上げが実行された。しかし更に言えばこれは、単なる値上げではない。市民しんぶんに曰く。「自転車の撤去保管にかかる経費よりも引き取りに来た者の払う保管料の方が少なく、その差額を税金で補填している。そこでその税金補填を0にするための改定」。黄金分割ならぬ、正に「サービス享受と負担との」見事な照応と言うべき着地点である。学童保育料も、値上げの幅とともに、所得による保育料から利用時間による保育料へと変更されたこともまた大問題である。これは単に応能負担から応益負担への変更などという言葉の問題に留まらない。党議員団発対市長宛て「値上げ撤回を求める」申入れ文書に、私は、この部分について「権利としての福祉から買う福祉への変質」と起案した。実は、昨年8月の「行財政改革計画」自体にも、以下のような考え方が打ち出されている。P28「公の施設使用料の総点検」と称し、全体管理運営費Bのうち使用料収入Aの「あるべき割合」を定め、そこへ向かって「使用料等を検討」する、とのことである。そのあるべき割合の最終目標はB=AでありA/B=100%と設定されうるであろう。前述の自転車撤去保管料「改定」では、既にこの「100%」が具体化されている。
 しかし更に、この発想は施設使用料に限定されない。この「総点検」の項では「施設を利用する方としない方との負担の公平性」とコメントされているが、この考えを敷衍し、制度施策全般に拡大しうることは容易に考え得ることである。一方、この制度全般への拡大は、実は、これまでの敬老乗車証にしろ学童保育料にしろ、「市民全般からの税金がいくら投入されている」と、既にさんざん強調されてきていることと同類項である。税金を投入せず、敬老乗車証負担金や保育料だけで賄うという意味でも、やはりA=Bが目標なのである。なお、この施設使用料割合の問題については、昨秋11/4付行財政局発議会総務消防委員会資料でも再度強調されているが、どういうわけか運営コスト全体をAとし、使用料収入をBとしており、今後の引用に際しては混乱のないように留意が要る。些細なことではあるが、市において、一貫性系統性に欠けるとの印象を受ける。
 前述の二宮先生のご指摘の通り、このA=Bこそが「サービス享受と負担との照応」に他ならず、市民の権利とこれを保障すべき行政との関係を、市場原理と同様の関係に置き換えようとするものであり、これが今、市長のめざしている方向、或いは行き着く先であるということができる。「新自由主義自治体」が志向されていると私が思う所以である。

    ※               ※

 しかしこの話にはまだ先がある。A=Bの場合、その負担を賄い得る者のみがその施設や制度施策のサービスを受けることができる。負担できない者は利用できない。弱肉強食、強い者勝ち、優勝劣敗…。一般に、自由競争の場合、持てる者と持たざる者との競争では、ハナから不公平である、平等な競争にはならない云々、大企業と中小企業然り、富裕層と庶民との競争然り、大手と中小とでは、形式的には自由競争だが実質的には公平公正な競争性は働かない、等々。しかし問題はそのレベルに留まらない。その先がある。形式的にすら対等平等、自由競争ではない。強きを「助け」弱きを「くじく」政治によって、むしろ実質的不平等を市長ら自身が助長し増進し、形式的にも不平等状態を創り出しているというところに、今日の国政と市政の大きな特徴が横たわっている。市長において、都市計画における規制緩和然り、企業立地補助金然り、ゼネコン本位の大型公共事業然り、市民税所得割における税率フラット化然り、「国の法人税減税の、市の法人市民税法人税割の減収への連動」への無批判と問題意識欠如等等、その事例は枚挙にいとまがない。新自由主義は、市場原理に基づいて、レッセフェールだ自由放任だ予定調和だ見えざる手だと言うだけでなく、その後の歴史がむしろ社会権や労働基本権を生み出し、しかもその必要性がますます高まっている今日においてむしろ逆に、持てる者応援、格差拡大を意図的政策的に推し進めているのである。京都市の「危機」の本質は狭義の「財政」にではなく、地方自治と地方自治体の「危機」であると、ずっと感じてきたしそう書いてきたが、ではその地方自治体の危機とは何ぞやと自問した場合、私は、この格差拡大政策の採用こそが、本来の地方自治体のあり方を歪める核心であるとの確信に思い至った。そして実はこのことは、結局、この論考の主題である「財政危機」の要因分析やその対処の方向の問題にも帰着することになる。
 「危機」の要因は何か。累進性的観点欠落・減税と都市大企業の集積利益への無理解等々の大手優遇、加えて国追随の交付税削減等と、市内高速道路等大型公共事業のムダ遣いや企業立地補助金等を通じた大手応援が、減収と支出増、つまり財政「危機」を招いた。
 一方、ではその打開方向はどうか。対処の方向として、専らそのしわ寄せを市民生活に押しつけ収奪を強めるとともに、その「危機」の要因である大手優遇を、むしろ「危機打開」の処方箋に書き込み、引き続く居直りで今も今後も推進しまたしようとして増幅させ、また相変わらずの国追随でますます「財政危機」を深刻化させているという現状である。「危機」打開を、口では目指しているつもりが、その方向が、大手優遇庶民劣遇、更には市場原理へ向かうことによって、ますますその「危機」深刻化の悪循環に陥っているというのが、今日の京都市の姿ではなかろうか。

 その他、「改革計画」では、民間化の強調・一層の推進や、Society5.0とかDX推進、等々とも書かれている。前者では、財政から出発してその節減節約の為というよりも、最早、そのこと自体を目的とするに至っている。大企業等に営業と活動の場と機会を提供しようとする目的である。前述のA=Bの発想を基礎としてそこから様々な制度施策施設等のバリエーションを考えれば、その担い手は公に限らなくてもよいとの方向に行くのはたやすい理屈である。後者も結局は国言いなりと大手IT企業等への営業の場の提供という意味で前者と同じ動機から出発している。Society云々については、せめてもう少し史的唯物論の勉強でもしたらどうかと言いたいがそれはともかく、これらの類の記述は、本「計画」が、財政危機打開と言いながら実はその本質は狭義の財政にはあらずということを示している。市民の権利とこれを保障すべき市長の義務という関係を、その権利でさえ営利の対象に差し出そうとする強助弱挫または助強挫弱(強きを助け弱きを挫く、との井上造語)の自治体を志向するところの「計画」に他ならない、というのがコトの本質ではなかろうか。市長が「目指している」とは私も言い難いが、客観的には、今の路線を採る限り、そういう自治体への変質転落への道に通ずるとは断言できる。この道は、必ずや市民の総反撃を受けてやがて挫折するであろうと確信する。これは歴史の必然である。 

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2021年10月13日(水)

市「上質宿泊施設要綱」は廃止すべき

No.228

仁和寺門前における上質宿泊施設候補の選定は無効だ     2021/10/6   井上けんじ

 今春、市の「上質宿泊施設誘致制度要綱」にもとづき、事業者からの計画の提出、これを受けた有識者会議開催を経、市において、本計画を上質宿泊施設候補として選定と、4/19付、広報されている。そこで、以下、この選定は間違いであり取り消されるべきである、もっと言えば、上記制度自体の廃止を求める、との立場から、その根拠等について、自分なりに頭の整理をしておきたい。
 本制度は、「上質云々」と銘打ってその上質とやらの各指標である歴史や文化、地域の活性化への寄与等々を審査の対象とするという建前を装っているが、実際は、原則、違法であるところの「制限区域」での施設建設を、何の手続きも経ることなくハナからの前提として既成事実化してしまうという点にある。ここが問題の本質である。その「制限区域」での例外を、何の根拠もなく、また手続きも踏まず、所与の前提としたうえで、質の程度や可否の問題にすり替えているのである。上質か下質かは、程度の問題であり主観的なもので、本制度の根幹でも何でもない。本質を隠すダミーであり隠れ蓑でありイチジクの葉っぱにすぎない。論点が意図的にそらされている。
 要綱のフレームは以下の通りである。即ち、事業者が上質たる計画を立案、市に提出、市長任命の有識者の意見を聴取、市長が上質候補として選定の可否を判断、選定されれば、その「質」を維持する為に事業者は引き続き努力していく。更にその後、次の別制度に基づく手続きに移行していくことになる。しかし、である。本制度は、提出すべき計画をどこで具体化するか、どこで立地するのかと言えば、それはそもそもの前提として「制限区域」だとされている。「上質宿泊施設計画」とは、「制限区域」内での計画のことをいう、というのが要綱上の定義である。「制限区域」外での施設建築の計画や申請は、そもそも本制度の対象にはならない。五つ星の超上質施設を計画し、市に提出しても、宿泊施設建築可能な地域地区での計画である限り、受理すらしてもらえないとの仕組みになっている。一方、審査の対象とされたが選定されなかったとしても、手続き上は何の障害にもならない。今後の別の手続き上、不利になるとか、市民的な評価がどうであるとかの影響は免れないとしても、「建ててはいけない」とはならない。そもそも、本要綱にはそういう想定については何らの規定もない。「上質」かどうかは問題の本質ではないのである。
 周知の通り、建築基準法第48条では、一定の地域では宿泊施設は「建築してはならない」が、例外的に、特定行政庁が「許可に利害関係を有する者の出頭を求めて公開により意見を聴取し、かつ建築審査会の同意を得」たうえで許可すれば、「この限りでない」とされている。つまり、制限区域での建築は、厳重な手続きを経たうえでなければ許可されないのである。そんな手続きは誰も踏んでいない。今の時点では、原則通り禁止されている状態なのである。然るに、本制度は、そもそもからその「制限区域」での計画立案が前提とされている。上質かどうかの判断以前、それどころか何らかの計画の提出の有無以前、有無にかかわらず、要綱の存在自体が、法律上の手続きを勝手に踏みにじり、法律上の「例外」を既成事実化してしまっているのである。
 昨年1/24の市議会常任委員会での私の質問に、担当部長は「様々なプロセスを全て通ったうえで」、「選定されたものが自動的にそのまま許可を受けられる訳ではない」等と答弁されておられた。確かに、今後、建築基準法に基づく手続きに移っていくし、そこでのハードルがあることはその通りである。同法での手続きのキモは、市長が例外を認めるかどうか、建築審査会の同意を得られるかどうか、にある。然るに、そのハードルは、この上質制度が、その例外の可否の判断の本命である同法48条の手続きに先立って、既に前提的にクリアしてしまっているのである。審査を経て、認める認めないを決めるのではなく、制度の枠組みそのものが、既に例外を認め、制限区域での立地を前提としたものとして設計されているのである。本制度で上質と選定されなかったとしても、その後の建築審査会での審査を何か左右するものでもない。委員の心証には影響があるかも知れないが、基本的には別の手続き・概念であるから、建築審査会は、あくまでも都市計画法と建築基準法の趣旨に則って判断されるべきであろう。事業者にとっては、「上質との選定」がカギなのではない。提案が受理された段階で(制度的には制度の存在の段階で)、その時点で建築基準法上の例外が認められたことになるという規制事実が得られるのである。繰り返しになるが、「制限区域」での計画が、本制度上の計画であるからである。受理は市長の権限であるから、既にこの時点で市長の「意思」は明白である。建築基準法上の要件を満たさずに、市長は独断で「許可」しているのである。そのこと自体が、要綱が法律の規定を超えており法律のルールを無視しているから、要綱のこの部分は違法であり無効である。またこんな状態で建築審査会が、その後の手続きとして開かれたとしても、既に市長の意思は明白、どころか圧力として働くであろう。制限区域での計画を既に受理されている提案に異を唱えることが、市長任命の審査委員に可能であろうかとの危惧を禁じ得ない。
 一般に何らかの申請において、複数の諸手続きを経なければならない場合、行政等の各部署は各々の専門性に応じて夫々のハードルを設けて審査するのであって、同一の部署が複数の要件を審査することはあっても、通常、同一の要件を複数の部署が審査することはない。然るに本件事例では、「制限区域」での建築の可否を、異なる部署と方法によってダブルチェックとされている。というより、まず本制度での手続きはチェックではなく、ノーチェック、どころか、そもそも制度の前提とされている。本要綱は、「制限区域」での建築の可否を審査するためのものではなく最初からの前提としている。「諸手続きのうちの夫々のハードル」との答弁はあたらない。上質の可否の選定との外観を装って、制限区域での建築許可を既成事実化しようとするのが、本制度の本質なのである。
 そもそもその要綱を定めたのが市長であり、今春、候補として選定したのも市長である。事業者から計画の提出を受け取った時点で、仮にその後、上質とは言えないとの評価であったとしても、既に受理の時点で、市長の意思は既に明確である。その後、建築審査会が開かれても、結局は「出来レース」にしかならないことが危惧される。市長は、虚心坦懐、心涼やかに審査会の同意の有無に素直に従うということではなく、既に「上質〜」の手続きにおいて「例外を認めるとの許可」を強力にアナウンスしているのであるから、これは、審査会各委員の、都市計画法と建築基準法の趣旨に則った純粋な判断に対し、制度としてプレッシャーをかけてしまうという構造になってしまっているということである。穿った見方をすれば、本制度の本質は、「上質云々」ではなくて「制限区域」での建築を可とするものであるばかりでなく、結果として、ではなく、元々、この「制限区域」での建築を、利害関係を有する者の意見聴取や建築審査会での審査の前に、予め認めてしまおうとするものである。
 憲法違反の法律は無効であり破棄されなければならない。法律違反であり、法律の手続きに介入する要綱は無効であり破棄されなければならない。個々の条項が違反でありその部分が無効というよりも、本制度は「制限区域」での建設を前提とした制度であるところから、制度全体が最早無効である。引き続き市を追及していきたい。 以上


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2021年06月16日(水)

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」4

No.226

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」その4

= A:国の税財政制度政策への批判的視点と累進的発想の、欠落 =          = B:自治体の、危機ならぬ変質へ =

 6月7日、市長が「行財政改革計画」(案)を発表。昨秋以来、小出しで「行財政改革」方針が出されていたが、その中で、新年度にはまとまった計画を出すと言っていたものの具体化である。「お金が無い」の部分は従来通りの展開であるが、むしろ今後の「道筋」や「改革の取組」との方針部分で、かなり踏み込んだ改悪案を具体的に打ち出している点が特徴である。一言で言って、いつも言っていることではあるが、本稿の副題Aが、まず私の評価である。同時に、個々の具体的改悪案のすさまじさとともに、総論的に言って、京都市が今以上のトンデモナイ方向に更に舵を切ったという印象を受けている。これが追加の副題Bである。
 表題「地方自治の危機」との根拠について、私は今まで、 嶌眄危機」の要因として国の税財政制度政策が大きいのに、ここへの批判的観点がない、追随が目立つ。△海隆囘世魴舁遒気擦燭泙沺∪譴藥毀韻悗寮度施策の後退や縮減、切り捨て等一辺倒へ突き進むことは「住民福祉の向上」を旨とする自治体の本旨に反する、の二点を念頭に置いてきた。しかし今回、「地方自治の危機」は、更に深化している。「危機」から「変質」へと変質しつつあるという気がしている。その印象の所以を考えてみたい。
 まず今回の「計画」は、従来にもまして、,發ΕΕ鵐競蠅垢襪曚鼻慳唄峅宗戮強調されている。「本市が抱える課題に対し、民間企業等と連携し…」「民間事業者に…ノウハウが蓄積されている業務等、積極的に民間活力を活用する必要」「民間活力導入による業務の効率化と市民サービス向上…」…。さらに、直接「民間」という表現を使わなくとも、「活性化」「PFI」等々、事実上の民間化を推進するような表現も数多い。
 しかし私の、「変質」との印象の本命は、◆惻益者負担』という、為にする論を立て、負担と給付の1:1対応をめざすという方向である。曰く「市民が受けるサービスの水準と市民負担の水準を均衡させることが原則」と、これは市財政全般と市民個人についてと、二重の意味で使われている。この趣旨は何度も出てくるし、この発想は本「計画」の基調にもなっている。私は以前から、「敬老乗車証や国保、保育料など、制度対象外の市民、被保険者でない市民、保護者でない『市民からの税金がつぎ込まれている』云々との言い方は、市民間の対立と分断を煽ると、この言い方を批判し、「市長の給与や退職金は彼が払っている税金で賄っているのか」、「動物園の運営費は入園料だけで賄っているのか。そんなことはありえない」と例示してきた。
 ところが、である。今回の「計画」では、「施設使用料も、運営費に対する割合を高めていく」「手数料は、受益者負担割合を原則100%とし…」云々とされ、その考え方として「利用する方としない方との負担の公平性をとる必要」が挙げられている。私にとっては「ありえない」ハズであった考え方の更にその先を市長は走っている。これは、分断や対立を煽るというにとどまらず、会計や財政、税金の大原則から逸脱している。総計予算主義原則や、資源配分・所得の再配分等、財政や税金・社会保障等の役割や原則への、真っ向からの挑戦である。国民の権利とそれに対応する国家の義務という公的関係を物の売買と同じような市場原理に置き換えようとするものである。「本来、給付はそれに見合う負担が伴うのに、財政を通じた給付は負担と直結しない為負担抜きを当然視してしまう。『財政錯覚』だ」として非難するのである。まさに新自由主義の具体化であり貫徹である。「危機」ならぬ「変質」との私の認識の変化の根拠は、まさにここにある。これは、「財政が危機だから」とは全く別の次元の話への、悪い意味での飛躍である。
 そもそも、「受益者負担」論自体が為にする議論であって、保育は保護者だけでなく社会全体の将来に向かっての、「益」と敢えて言うなら「益」であるし、動物園はその存在自体が、いわば文化であり公的に運営されるべきものである。高齢者の外出促進は社会全体の利益に繋がる。「障碍者を差別する社会は脆い社会」と、かつて国際障碍者年の時に言われた。これらは狭い意味での「利益」ではなく、国民の権利であり決して「益を受ける」わけではない。
 一方、敢えてもし「益」と言い張るなら、では大企業の益はどうかと私は問いたい。例えば宮本憲一教授などが常々強調され、また1975年当時、京都市自身の財政審議会も指摘されていた通り(座長は京大の池上惇先生であった)、大企業の都市集積「利益」等については、市長や、今回の行財政審議会の先生たちはなぜ触れないのか、彼らの歯牙にもかからない。「受益者負担論」は、専ら、庶民に負担を押し付ける為の、為にする議論なのである。ついでに言えば、大企業の都市集積は財政需要の増大をもたらし、この部分の負担を免れているまたは軽減されているという実態もまた大きな論点である。新自由主義は、庶民も大企業もみんな一律にレッセフェールでは大手有利で強い者勝ちだから不公平だ、というだけに留まらず、大企業や富裕層には、減税や、集積の利益擁護・負荷不問、営業環境整備などむしろ積極的な保護支援政策なのである。本「計画」でも、デジタル創造都市とかグローバル都市、「必要な規制緩和」「市街化調整区域における産業用地創出」「文化と経済の融合」「スポーツと産業分野との融合」「公園や森林の特色を生かし民間活力の更なる導入」「仮想空間においても売り上げ増加」等々といった言葉が躍っている。
 今一つ指摘したいのは、「危機」を「根拠づける」市のデータや説明の類についてであるが、「夫は妻にウソをついているわけではないかもしれないが全部を語っていない」。公債償還基金の枯渇とばかりが強調されるが、その前に、今後の収支の見通しの、もっと根拠をもった精査が必要である。そもそも予算は単年度毎に編成され議決され執行されていくものなのに、今後、「毎年○円の不足が生じ、5年間で5×○円の不足が生じる見込み」との言い方も、この単年度主義から言ってどうなのか。また各年度毎の収支についても、例えば10億円単位の項目が20にも及べば、計200億とは言っても、四捨五入で、最大100から280億までの幅があることになる。上限を設定しているのに、例えば投資的経費は、今後、何故昨年度今年度よりもずっと多くなるのであろうか。社会福祉経費の増を消費的経費等の削減で賄うとしながら、一方ではその「社会福祉経費の増加自体の抑制にも取り組む」などと言っているのである。基金に限ってみても、今後の各年度毎の返済額とそこへ向けての毎年の積立必要額のデータが出て来ず、「あるべき残高」の根拠が不明である。今年度の実際の残高のうち1/3は臨時財政対策費分であることなど、ここでも、国の責任の追及に及び腰だからなのかどうか、極めて小さくしか書かれていない。交付税減も書き流されているだけで、大問題だと本当に思っているのかどうか、疑わしめる。過去の市債発行についても、高速道路のことは全然出て来ない。「都市格向上に」「必要な投資事業でした」と言うのはちょっとはばかられるとでも思っているのであろうか。
 最後に、前から言っていることの繰り返しだが強調しておきたい。市民税の高額所得者の所得割を三位一体改革前の税率に戻す、国の法人税減税が自治体の法人市民税減収に連動しているところからこの点を国へのアクションの課題とする等々、私の提案に背を向けている限り、市民リストラはありえない。本当に「危機」を何とかしたいと思っているのか。北陸新幹線推進や油小路通地下バイパス計画も「危機」を疑わしめる。「国の財政も大変」と言っているようでは危機打開は覚束ない。そんな認識での市民リストラは筋が違うと言うべきである。国の税財政制度政策への批判と、前述の市民税率に示される累進性という二つの視点を欠落させたまま専ら市民へのリストラに突っ走るのは、はじめにリストラありきなのかとさえ思えるほどである。
 かくなるうえは、当面の課題改善の方向として、地方自治尊重の国の政府を実現し、あまり方向はよろしくないが、「上からの」改善も一つの在り方だと思う。野党共通政策や市民連合において、または「憲法を地方自治に生かそう」と思っておられる研究者の先生やその筋の関係者の皆さんたちが、「野党共闘政権に期待する自治体政策(案)」を発表され(この方式は各分野毎での関係者の皆さん方の準備と取り組みを期待したいところだが)、例えば「交付税の大幅増額、臨時財政対策債の廃止」等を掲げて頂くようにするなどのことを考えてはどうか。「野党共闘で政権交代を、新しい政権で地方自治体財政(※)危機打開を」とのスローガンはどうだろうか。京都市をはじめ全国の地方財政危機に悩む自治体関係者の皆さん、本当に悩むならその打開の方向は野党共闘にありと、心から訴えたい。少なくとも、自民党や公明党を応援しているようでは、私の前ならいざ知らず、市民の前で「お金がない」などとは言わないようにしてもらいたい、と言えば言い過ぎであろうか。「危機」がもし事実であったとしても、市民の皆さんには全く何の責任もないことだし、また国の自治体イジメは、政党で言えば自民公明政権の政策なのであるから。

 (※)なお私は、地方財政とか、まして地方議員という言い方には到底賛成できない。私はあくまでも京都市会議員であり、また全国の自治体議員一般全般を総称して言う場合でもそれは地方自治体議員であって、略すなら自治体議員である。法制度上、条例より法律が優先するのは全くその通りであるし、社会変革戦略においても羽仁五郎や「地域政党」ばりの「自治」ならぬ、一国の制度改変が根本であることは言うまでもない。国会が国権の最高機関なのである。しかし一方、来るべき将来社会においてこそ中央指令型ではなく地方自治が花開くのであり、文字通り、地元の、自治体の、その地域の住民の、代表たる議員なのである。現代の運動は、今の今の改善課題から出発しながらも、同時に未来社会のありうる方向をも、目標として設定しつつ、目指していくものでもあると思う。ちなみに、「地方」に対するこの発想は、今は亡き我が遠藤晃先生の教えから得たものである。大阪の初村尤而先生も、この遠藤説を紹介しておられる。
 話があらぬ方向へ行ってしまったが、市長の「行財政改革計画案」については、言いたいことはいろいろあるが、また他日を期したい。このホームページの議会報告ビラの欄や議会論戦欄、コラム欄等もお読み頂いてご批判賜りたい。よろしくお願いします。



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2021年04月16日(金)

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」その3

No.225

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」 その3
(コラム欄、及び議会論戦、議会報告ニュース欄等もご覧下さい)

1、審議会答申への感想

 3月23日に「行財政審議会」の答申が出され、一応の段落を見た。本来ならこの時点で感想とか評価とか、一定の論評をすべきであるが、私としては、今まで書いてきたことで、概ねの感想は尽きている。はたして、審議会答申は、これまでの議論をまとめられただけで、目新しいと思えるものはほとんど何もない。辛うじて、「コロナが収まるまでは弱者に対する施策の見直しは配慮を」との趣旨のコメントが付け加えられたが、これは小西教授のせめてもの良心と言うべきか。しかしこの配慮も、答申全体の基調に何らかの影響を与えるものでもない。悪く言えば、言いたい放題のまま審議会はその役割を終えた。そのポイントを端的に言えば、「収入を超える支出を続け、その差額を基金で補填し続けてきた。このままではその基金が枯渇する。その超える支出とは主に福祉分野であるからここを削って収支均衡させ、もって基金からの補填をやめ基金の涵養を図る」といったようなことであろう。まことにとんでもない答申と言うべきである。
 一番最初に書いたように、財政の議論をしているのに累進性的発想がないことと、国との関係で議論する観点が全く欠落している。一自治体の中の「穴掘り闘争」だけで、今日の地方財政危機、従って京都市の財政危機も、根本的には何とかなるわけではない。「相手のある話は即戦力にはならない」というのは言い訳であり弁解であって、要するに避けているだけのことでありそもそもそういう視点が無いだけのことである。「国いいなり病」が市長だけでなく審議会にも蔓延している。審議会なればこそ、中期的な見通しも持ち一定は研究的な要素も加味した答申とすべきなのであり、そうしてこそ「学識経験者」の皆さんの知恵の結集たる答申と言うべきなのであろう。自治体とは、まず住民の福祉増進の為のセルフガバメントなのである。その議論が無い。その為の出ずるを量ることが先決なのであって、その前提の上に、ではその為の財源をどう賄うか、入るを制すという順序なのである。とはいえ現実にはそういう原則通りにはいかないのも事実で、ではなぜいかないのか、その追求は結局は国の行財政制度政策の壁にぶつかることになり、従って原則の回復の為には、その壁を批判的に乗り超えることが不可欠の課題になってくる、という、まずその道筋の認識が必要なのである。
 いやいや、しかし最早これ以上はもう言うまい。よせよせ問答。むしろ私にとっては、この答申を援用しながら市が現在準備している、実践的な「行財政計画」の方が一層要注意である。新年度に案が出され、パブコメを経た後に案が取れるとされている。新しい年度が始まったばかりとはいえ、早くも来年度再来年度に向けての攻防が始まっている。

2、一般会計予算全体への感想(予算議会を振り返って)

(1)3月12日の再起支援補助金補正予算委員会では次のように指摘した。「元々財政は出量入制。求められる政策が先にありその為の必要財源を賄うとの原則。今回の預託金がその証明。家計とは違う。しかしその原則通りにいかない現実がある。ではなぜいかないか、その追求は国の税財政制度政策への批判的検討に行き着くが市はその視点が欠落。どころか、収入の範囲での施策=入量出制という現実論から言っても不十分。”要な課題をハッキリさせた上で、しかし-1財政の制約で困難だと思うか、いや-2お金を造ってでも対処しようと思うか、その論点に行く前に必要課題明確化の視点が欠落」。

(2)これは本予算案についても言える。即ち、一般的には-1「住民福祉の増進」、-2今日課題的にはコロナ対策、またはその他の必要課題設定の議論抜きに、しかも△-1または-2の検討もせず、一足飛びに、ハナからの「財政危機」論に飛躍していることが、市の予算方針の最大の特徴であり問題点である。

(3)そこで、-1住民福祉の分野で言えば、まず少なくとも、重度障害者等利用事業所支援事業補助金の見直し、私学高校教育奨励助成廃止、乳がん検診廃止、被災者住宅再建支援制度廃止、生活保護世帯修学旅行援助金削減等については、仮に-1の検討をしたとしても全く妥当ではない。市民生活の最も基礎的な部分だからであり到底容認できない。-2の部類に属するからである。保育料や介護保険料の値上げ、印鑑登録証再交付手数料や自立支援医療診断書料の新規徴収も認められない。

(4)-2コロナ対策で言えば、ワクチン接種と制度融資預託金が、方針上も、従って額としても中心を占めており、感染拡大防止策では、その為の現下の課題である検査の拡大充実が時宜にふさわしく位置付けられていない。国においては、科学的知見の軽視と自己責任、ポストコロナへの傾斜が中心であり、市も多分にこの影響を受けていると言える。現状認識と分析の不足、課題の抽出・設定が不明確で、市民へのメッセージも不明確である。経済対策も購入・調達の事後的実費補填だけで、減収分自体への給付金支援は、市独自としては皆無。最新の補正予算の再起支援補助制度で辛うじて今後の家賃補助がメニューに載ってきたことは一歩前進ではある。相談対応や申請手続きなどの民間化が進められ、直接的な公的相談窓口が狭くなりデジタルデバイド等ハードルが高くなっている。

(5)予算案全体の特徴としては、まず上記(2)〜(4)の各項の通り、ささやかで身近な市民向け施策の切り捨てと、コロナ対策の不十分さが挙げられる。後者については、対策の前提としての実態把握の不足、現状認識と課題設定が必ずしも的を射ているわけではないことが、不十分の要因である。更に、際限のない「民間活力の最大限の活用」路線で、公務が民間企業の営利事業の対象に提供されていること、国言いなりのデジタル化とマイナンバーカード強要により窓口の縮小や個人情報保護流出、監視社会化が危惧されること、さらには「クラウド」により自治体の情報が文字通り雲の中で、施策の国基準への横並び、団体自治の後退等々が危惧されること等も特徴である。首都圏からの誘致、海外からの京都創生への支援獲得、都市間競争、成長戦略、等々の言葉が踊る。土地のみならず空間の活用まで打ち出す有様で、単なる景観破壊に留まらず、大手誘致による、「健康で文化的な都市生活」よりも「機能的な都市活動確保」(都市計画法ではこの順序で基本理念が謳われているのに)を優先させる方向がめざされている。被災者住宅支援策打ち切りの理由として「自助」が掲げられ、これ自体、スガ政治言いなりの具体化でとんでもないことであるが、更に住宅支援に留まらず、(2)にて前述の通り既に市政全般に一般化され他の分野にも広げられつつある。団地再生、管理・公募戸数の適正化・最適化も「住まいは人権」への行政責任放棄、住宅分野における自助押し付けの具体化である。来年度以降も視野に入れた方針とされている。

(6)しかし何と言っても予算案の最大の特徴は「財政危機」一辺倒が、その基調になっていることである。昨年9月の'19年度決算実績報告書では「仮に…取崩を継続した場合、機械的な試算になるが、十数年後には…枯渇する恐れ」とのことだったのが、その直後から、突如「5年後の'26年には枯渇」と強調され、これが一人歩きしている。「危機」論自体の検証と精査が必要である。
 −1)まず「枯渇」論の検証が要る。そもそも昨秋からの「500億円不足」説も、収入支出の各項目の額の根拠が不明確で、数字も大変ラフなものであった。「現時点における大まかな見通しを50億円単位で整理したもの」とのこと。にも拘わらず500億だけが一人歩きして市民への脅迫材料になっている(市民新聞2/1号「今後、毎年度500億円もの財源不足」)。しかし予算書では、この500億が236億になりしかもそのうち123億はコロナ影響とされている。取崩額は181億と言いながら、コロナがなければ58億である。この点で慢性「危機」とコロナによる急性危機との混同がある。元々、基金を取崩して補填しなければならないかどうかの前に、その前提として今後の各年度の収支の各見込み方の精査が必要である。特に投資的経費や新規政策枠の根拠が薄弱である。答弁では「現時点での試算、今後毎年精査していく」と今後の変動の可能性も認めている。基金取崩しの前提が、いわば架空の楼閣とも言える代物なのである(この点に関連し、自民党も「収支不足穴埋めに今後も基金を補填し続ければやがて枯渇する」との市の言い分を批判している。おもしろい。しかしこれは、もっとも、と言うか、但し、と言うか、「基金を補填しなくてもいいように収支均衡させよ、もっとリストラを強化せよ」という趣旨なのであるが。この発想には公明等も賛同している)。
 −2)次に、今日の財政状況に至る過去の財政活動の総括が必要である。「脆弱」論は言い訳に過ぎず、後述の通り、交付税増額要求の焦点を曖昧にするだけである。市税が少なければ、国において交付税措置されなければならないし、その合計額が少ないのは交付税が減らされていることに起因する。地下鉄東西線建設における相次ぐ契約変更による建設費大膨張、「渋滞解消」のはずだったのに閑古鳥の鳴いている高速道路の市負担だけでも600〜700億円もの浪費、「戻ってくる」との約束を反故にしてその高速道路への出資金113億円の債権放棄、JRの事業なのに市からも15億投入の梅小路新駅とその隣の6億円の横断歩道橋、等々、深刻な反省が要る。法人市民税の国税化にも全く無批判的に追随し、法人市民税減収を招いている。三位一体改革の本質は、僅かな税源移譲と引き換えに交付税の大幅減額であったが、はたして今日その通りになっている。当時その国の意図が見抜けなかったとしても、今日、その結果から見れば批判的反省的な総括が必要なハズである。
 −3)ところが、市の、総括と現状分析は「財政危機は…国基準を超える福祉施策等…が大きな要因」というものである。審議会の議論の基調も然り。しかしこの短絡思考については、前述、3(1)--にて既に反論済みである。△-1または-2の議論の前に、\治はまず何をしなければならないかの議論が欠落している。その上で、では現状の確かに財政制約の中で、以下に後述の通り歳入増歳出減への努力や検討はどうかと言えば、これは全く不十分であると言わなければならない。
 −4)そこで、歳入増への努力はどうか。法人市民税法人税割について、制限税率一杯までの税率引き上げの党の提案に背を向けている。「超過の税率だけを議論するのは妥当かどうか」(鈴木副市長)等との答弁は、そもそもの税収増志向自体を疑わしめるものである。法人税減税の影響が法人市民税法人税割税収に影響があることは予算委員会で認めたが(林税務部長)、かといって国に声を挙げるわけでもなく、現状追随の姿勢であった。個人市民税所得割についても、高額所得者の税率アップを提案したが、これもフラットを是とし、党の提案に背を向けた。「せめて三位一体改革以前のように三段階をとは思うが税法の「同一税率」との規定が壁になっているのか」との私の問いに、部長は「町会費と同じ」と、市自身フラットを是とする答弁であった。「町会費論」は課税の根拠ではあっても、フラットとの根拠たり得ない。利子や株の売買収入にかかる住民税は府民税だけであるが、率は僅か5%であり、この税率をアップさせ、府税交付金アップに連動させれば、市にも環流されると提起した。辛うじて資産性所得の税率アップを要求していると答弁はしたが課題意識は極めて弱い(ちなみに'19年度決算による府の収入は、利子割525,722千円(うち、市への収入は'19年度決算で192,128千円、以下同)、配当割4,361,800千円(1,555,705千円)、株式等譲渡所得割2,382,830千円(851,842千円)。仮にこの税率が10%としてその2倍化がそのまま市への交付金に反映するとすると、ざっと25億円の増収が得られることになる)。ちなみにこの5%も例によって地方税法で決められているが、仮にまず5%でもいいから自治体で決められるように、国のおせっかいはもうやめるべきではないか。交付税増額とは言っているが、一方でトップランナー方式等交付税の性格を歪めるような動向に迎合しているようでは腰が据わらない。市独自で「非居住住宅税」を検討中であるが、対象や税率等論点未整理部分が多い。大企業・富裕層と国への遠慮と追随が先行し、累進性的発想が極めて弱い。歳入増への意欲は感じられず、「財政危機」を疑わしめる。
 −5)審議会では、新税は時間がかかる、対国は相手のある話と言って、目先の切捨策に終始しているが、今日、市においてはこういう弁解すら聞こえてこない。目の前の課題への対応と歳入増への議論や研究は併行し得るし、この議論等は課題対応を妨げるものではない。'26年基金枯渇論は別にしても、市の「今後の財政見通し」との表等では10数年スパンでの予測となっているが、一方で、国の税制は年毎の予算で変更されている。国の政治さえ変われば自治体財政危機打開への展望は大きく開けていくが、その為にも地方自治体サイドから政策的発信を続けていくことが欠かせない。
 −6)一方、歳出減への努力はどうか。企業立地補助金について、大企業除外を求めたが、「中小企業も対象」などと論点をそらす答弁。北陸新幹線については「財政極小化を」と何の裏付けもない単なる願望を語るだけ。堀川・油小路地下バイパストンネルについても指摘した。芸大は今からでも凍結すべきと求めた。福祉三施設統合や、統廃合による学校新設費用についても質した。今もまたマイナンバー押しつけに広告費などを使っている。
 −7)このように見てくると、市の言う「財政危機」を単純に所与の前提として受け容れる訳にはいかない。この点は、他党と我党との決定的違いである。現状打開に向けた我々の積極的建設的問題提起や提案に対し、一顧だにせず、弁解と言い訳、論点そらしと居直りを繰り返していることは、「危機」そのものの内実を疑わしめるものである。まして、施策の切捨や市民負担増は、仮に「危機」がその通りだとしても絶対に避けなければならない類のものである。政策の方向が全く逆向きとなっている。税収における累進的発想と国の税財政制度政策への批判的検討抜きに今日の地方財政危機打開はあり得ない。市の本当の病は、財政危機というよりもむしろ、市民リストラ以外に危機打開への方向を見いだし得ない展望なき短絡思考と思考停止病であり、自治法で言う「住民福祉向上」との視点の欠落、国言いなりという意味で、自治体の精神を失った地方自治の危機とも言うべきである。

(7)市民分断と「危機共有」論も市長予算提案の特徴である。敬老乗車証や保育料、国保料などについて、70歳未満の市民や保護者・被保険者以外の市民からの税金がいくら含まれている等と強調されている。予算委員会では、市民の間に分断と対立を図ろうとするもの、との立場から批判した。同時に、税金や社会保障の在り方、性質、意義、所得再配分機能、総計予算主義等、即ちある制度がその負担金や利用料使用料等直接の制度利用者の負担以外の一般財源から支出されるのは当たり前のことであるとの立場からも批判した。端的に私は、「市長の給料は市長の払っている税金だけで賄われているのか!?」と批判しているが。なおこの問題について、古本であるが最近読んだものの中に次のような趣旨の指摘を発見した。「『市場ではサービス享受と負担とが照応するが、財政ではこれが一致せず大衆は負担を回避したまま給付だけは享受できるかのような錯覚が生まれる。これが赤字財政のもとである。この民主主義のいきすぎ論・財政錯覚論』が、ケインズ主義批判として登場し、ここからも財政守備範囲見直し・公共への市場メカニズム適用との新自由主義へと繋がっている…」(1998年、新日本出版社「日本財政の改革」所収「財政構造改革路線と社会保障構造改革」二宮厚美先生)。即ち新自由主義者にとっては、上記「一般財源からの支出は当たり前」ではない、まことに荒唐無稽な論であると言わなければならない。併せて、実は先生のこの論は、「収入以上の福祉支出が財政危機の要因」との前述(6)−3)での「市の総括」への先見的な批判にもなっている。さすがは二宮教授。あらためて敬意を表し、目を見開かされる思い。市債の発行が将来世代への負担の先送りとの言い分も世代間・階層間の分断を図るものであり、むしろ「負担を世代間で均衡させる機能」があるとの立場から批判した。

(8)市長は再三「市民と危機感を共有…」を強調。仮に「財政危機」だとしてもその責任は、唯一、予算編成権を持っている市長と賛成してきた議員にあり市民には何の責任もない。自身の責任を棚上げして客観的な不可抗力の如き問題の立て方をするのは、結局、真の責任の所在を免罪し隠蔽し、ことの本質をそらすもの。この点についても指摘し批判した。

(9)財政規律からの逸脱やふるさと納税についても批判し問題点を指摘した。例えば法人市民税の超過課税分が「産業振興や社会基盤整備等に活用」との市の説明であるが、諸税目収入が市の財布に入りそこから必要な各項目に支出されていくという総計予算主義からの逸脱であり、その背景には市民には容赦がないのとは対照的に大企業への遠慮があることを指摘した。ゴミ袋代の「財源活用」も、活用と言うなら手数料流用であり、同額を活用というならそれは単なる一般会計の使途の問題に過ぎないと、その矛盾を指摘した。ふるさと納税についても、本市への寄付収入以上に、市民の他自治体への寄付による市民税流出の可能性を排除できないことによる減収の恐れを指摘した。「地場産品の返礼品で勝負」との答弁であるが、+の場合でも結局は他自治体との±による都市間競争を煽るものであることを批判した。財政規律で言えば、他自治体へ寄付した市民は市民税控除で市の言う「町会費」すら免れることになる問題点を指摘し批判した。

(10)上述「財政危機一辺倒予算」が、再来年度以降も引き続く一里塚と位置付けられていることも、大きな特徴であり、問題である。憲法や地方自治法では、内閣や市長が作成して議会に提出…しなければならないのは「毎会計年度」の予算であるから、それこそ私が議会報告ニュースで書いたように、「来年のことを言って鬼も怒っている」、もっと言えば年度毎提出原則に抵触の疑いがある代物である。3年間を「集中改革期間」と設定し、既に1/13に推進本部を発足、新年度に、議会への報告やパブコメを経て「行財政改革計画」を打ち出す予定とされている。予算自体ではないが、既に、諸方針文書等により、'22年度に向け、消防音楽隊(これについては再考も有り得るような答弁ではあった)、民間保育園プール制、福祉医療子育て支援受益者負担、敬老乗車証、施設使用料、市営住宅家賃減免、ヘルスピア、団体補助金、受益者負担の在り方、補助金支援金等々を見直す、施設の統廃合を集約化、等々と予告され、4年間で760億円を生み出すとしている。

(11)「再生団体」になると国保料や保育料が3割4割の値上げになる、「上回る施策はできなくなり市民生活に大きな影響」と強調されている。しかし皮肉にも「…団体になる」前に、今回、「上回る施策」を切り捨てようとしていること自体が既に「大きな影響」なのである。国保料2.9割・保育料3.9割値上げなら「小さい影響」で許容されるというのか。再生団体化を防ぐはずの敬老乗車証や民間保育園職員給与見直し等は大きな影響ではないというのか。「上回る施策ができなくなり…大きな影響」を本当に避けたいと思うのなら、今回の方針は撤回しかない。「持続可能性」とは、廃止はしないけれどもそのすぐ手前の2.9割3.9割値上げ状態迄なら許容されるという意味に他ならない。市民にとっては、この時点で既に持続していない状態であると言うべきであろう。

3、国予算の特徴として、財政部門では地方財政総額据置きの他、インバウン
ド重視、ポストコロナへの前のめり、DX(一路デジタル化)、自助、公共部門縮小路線等々が挙げられるが、これらの特徴はそのまま市予算にも当てはまる。国の方針言いなりに、京都でもその具体化という図式も大きな特徴である。国において僅かに35人学級を打ち出したことが唯一とも言える前向きの動きであるが、こちらは逆に市は新たに具体化しようとはしない。いずれにせよ市予算の検討に当たっても、今後とも国の予算や動向を見ておく必要がある。

4、市長曰く「コロナ禍で市民生活大変厳しい中改革に取り組むのは大変心苦しく」(1/13、第1回改革推進本部)、「…危機感を共有して展望開くことが大事。間もなく審議会から答申頂くが、しっかりした計画を立てなければならない。その為には市民の負担の増になることも事実…」(3/18予算委員会市長総括質疑での津田議員への答弁)。即ち、「改革」や「計画」について、「心苦しい」「負担増に」等と、市民にとってマイナスであると言っている。しかし一方、予算や方針の基調自体は、錦の御旗・葵の御紋の如く「改革」推進一辺倒であるから、結局これは「市民への負担増」押しつけを自認していることに他ならない。言葉の使い方が混乱している面があるというか、一部、本音が出てしまったということなのか。以前、私は、市長の「改革」は市民にとっては「改悪」であるが、これは言葉の使い方が間違っているというよりも、そもそも彼らにとっては文字通り「改革」なのであって、そこにこそ階級社会の本質があると、その感想を書いたことがあるが、正に市長陣営にとっては「改革」が正解なのである。いずれにせよその市長ご自身の言う負担増と切捨を政策の基調として進めようとするのが、今回の予算の最大の特徴と本質に他ならないと言えるのではないか。了解できるはずがない。

5、最後に強調したいのは、今予算は市民リストラだから反対だ、という単純な話だけではない。いや勿論それは全くその通りなのであるが、しかしそれ以上に私が言いたいのは、「財政危機」を強調し、そこで市民リストラだと言いながら、実際はその「危機」の総括も克服の為の努力も全く不十分だし方向も間違っているということである。本当に「危機」なのか、こそが論点であると言いたい。市長はともかく、良心的に真面目に「危機だから何とかしなければ」と思っておられる市幹部の皆さん、市職員の皆さんと、もっと議論し合いたいと心から願っている。「住民福祉の向上」と「国言いなりにならない」こととが地方自治の要だとすれば、そのいずれもが危うくなっているところに、今日の市の財政、のみならず市政全般の最大の危機が横たわっているというべきではないか。この記事のタイトルの所以である。打開の道は、世論の力や運動、議会での論戦、力関係を変えていく、そして市政の転換等々の方向が基本だが、さしあたっては、総選挙での政権交代で、例えば交付税の大幅増額や法人税の引き上げ、課税自主権拡大等々、国の政治から、京都市政や、ひいては地方自治体全般、地方自治自体の在り方を変えていくことが、当面の近道であろう。「危機」と言いながら自民党に入れているような感覚自体が、実は本当の「危機」なのではないか、と私は思う。

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2021年02月22日(月)

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」その2

No.224

 今回は、昨年暮れ、御用納めの日に市長が記者会見をして発表した文書と、1月12日の議会総務消防委員会に示された市の方針、及びこの市の方針に添付されている「審議会のこれまでの議論」と称する文書の、三点について、批判的な感想を書いてみました。

2021春予算議会に向けて、市長記者会見資料A、「今後の行財政改革の視点及び主な改革事項」B、及び審議会「これまでの議論」C等の論点   2021/1/28 井上けんじ

はじめに

 市が予定している今後の流れの確認。上のBP3・4やAP5によると、'21〜'25の「京プラン2025=基本計画」が今回の予算議会に提案予定(1/26同審議会答申)。その具体化として'21年度早期にパブコメを経て「行財政改革計画」を策定。この計画には、「視点」=Bを「磨き上げ」、更に3月予定の「改革審議会」答申を踏まえ反映させる。一方、'21〜'23を「集中改革期間」と位置付け、「大胆な改革を断行」。なお、可能なものについては'21年度予算に反映させる。市長をトップとする「改革推進本部」は既に1/13に発足済み。

1、各論(狭義の総務消防部会)として議論しなければならない項目

A7・B15・A10etc.(数字は頁)「受益と負担のバランス」「受益者負担」。公共サービスは、憲法に根拠を持つ基本的人権を守り実現する施策の一環として国や自治体の義務と責任において提供されるもので、住民は、これらを権利或いは生活必需品として享受している。俗に市場原理で言う「益」を受けている訳ではない。例えば敬老乗車証や保育料は、元気になることによって介護費用節約との益を享受しているのは社会全体だし、保育は企業にとっての労働力確保にも子どもの成長発達による将来社会全体の利益にも繋がる事業の一部である。本質は住民への負担転嫁。目的税との相違や最適バランスの水準等論点は多い。
A10・A11・B14etc.「委託化・民営化等…」「民間活力の最大限の活用」。これは最早財政節約の為と言うより、民間化自体が積極的自己目的化。民間企業に営業の場を提供し市場開放しようというもの。公務を営利の対象に。利益の源泉は労働者へのしわ寄せか市民負担増か。利益が上がらなければ撤退か。
A2・11・B20etc.「職員数を削減」。民間化やデジタル化ともセットで。市民サービス向上より人件費削減ありき。以前は財政危機の為やむなくとの理由付けもされていたが、今や積極的な成果として語られている(1/13推進本部市長訓示「…3,500人削減等…改革を徹底、福祉・教育推進…都市格向上…それらが市民生活の豊かさに繋がる…」)。
A11・B21「短期的な人件費抑制」「給与制度の点検・見直し」。この二つは別のことを言っている。前者は「災害や緊急事態に際し」「機動的に、市民の安心安全」のために、それこそ臨機応変に、市長が緊急と判断しさえすればいつでも抑制しようということ。人員削減による人件費抑制という意味ではない。後者は文字通り制度自体をいじるという宣言。
このBの「視点6」では、「職員が意欲を持って働き続けられる職場づくり」と謳っている。賃下げで意欲が持てるのか。蜷川民主府政時代には府職労が賃下げも含めて議論されたとの歴史もあったが、勿論状況は全然正反対。「危機」であったとしてもそれは職員の責任ではない。市長が打開への正しい方針を打ち出している訳でもない。制度の見直しにまで踏み込むと言うのなら人勧制度に抵触?。それなら団交権・スト権を回復すべき。頑張れ市職労。職場を基礎に、市民とともにたたかおう。
A11・B14「デジタルの活用」。労働軽減よりも人員削減になるのではないか。特に窓口業務は人員配置が不可欠。機械等ではとって代われない。デジタルの「標準化」は、施策の国基準への統一化に通じるおそれがある。マイナンバーカードの強制、個人情報漏洩等への危険へ通じる危惧も払拭できない。国家による納税や給付等情報の一元的管理へ。一部大手IT業界の利益拡大をスガ政権が進めていく?こういう動きへの無批判的追随。
B14「消防音楽隊・カラーガード隊廃止」。削減はこれらに限定されるものではない。職員削減は消防局も例外ではない。
●以上、最初からの総括的な分析は力が及ばないので前から順に市の文書の表現に沿って考察してきたが、それだけで終わっては相手の土俵の上だけで済んでしまうので、これらの文書で直接には触れられていないテーマについても、以下考えてみる。
●上の「民間化」とも関連するが、今回、広く「自治体とは何ぞや」が問われている。狭義の財政論に矮小化することなく、広く、本来の自治体のあり方を対置して対案としていく論戦が求められる。
●目下の緊急且つ切実な課題はコロナ対策であり、市民の命と健康、雇用と営業と暮らしを守る為に全力を尽くさなければならない。
●今回は特別委員会設置であるが、次期京プラン案への批判的考察も必要。抽象的な「きれい事」のような表現の影に「強靱なインフラ整備、土地・空間利用、観光の京都モデル」等々、時代的反省と総括が欠落。経済政策から言っても都市計画から言っても、暮らしと環境より「経済優先」思想にしがみつく。
●「財政危機」への対案について考えるにあたり、今後、議論すべきテーマについても何点か挙げたい。経費節約では、学校統廃合や三施設、芸大は「先送り」か「練り直し」か「精査が必要」か。第一市場では節減の余地はどうか。北陸新幹線は見積もり抜きで無謀な突入。それこそ「将来世代への負担の先送り」。企業立地促進助成金も少なくとも大企業向けには不要。歳入増では、大企業への制限税率一杯までの増税、国との関係はあるが個人市民税高額所得者の税率アップ、固定資産税についても、収益目的の非生存権的所有と生存権的所有との区別(かつて美濃部都政がこれに類する構想を打ち出したことがあるが当時の自治省が強引な横やり)、大企業の償却資産減税の是正、また前述の企業立地との関係ではむしろ開発負担金や大手超過課税の検討もどうか。
●北陸新幹線は、財政問題に留まらず、現京都駅を通ることから、東京外環と同様の深刻な居住権侵害・環境破壊等等の問題が憂慮される。多面的な角度からの論陣を張る必要。

2、市の言う「財政危機」は本当か

A1「京都の都市特性により…他都市よりぜい弱な税収構造であったため…今般のコロナの影響もあり…危機的な財政状況…」。これだけでは危機の原因が不明確。市民一人当たり市税が大阪より少ないとよく出てくるが、商都大阪との比較自体に無理がある。規模が違う。しかし個人市民税は京都の方が高いから「学生や高齢者が多い」、は理由にならない。各市町村にそれぞれ都市特性があるからこその交付税制度。もし危機だとしてもそれは「ぜい弱」ではなく、交付税制度が機能していないことにその理由があると言うべき。「…構造であったため」と過去形になっているのは何故?コロナの影響があるというなら、それは京都だけの話ではない。全国の自治体が団結して国への財政措置を求めるべき課題。
 ちなみに、C1では「一般財源収入は他都市平均より84億円多い」とのデータ。
A3「支出が収入を上回る状況が継続」。国や自治体の財政は「量入制出」ではなく「量出制入」。確かに現実にはそうなっていない面があることも事実。だからこそ国の税財政制度政策への批判的言及も含めてその理由の究明が必要。要するに市の主張は収入不足分を基金取崩で補ってきた、その基金があと6年程で枯渇する(だから大変だ)ということに尽きる。他に、収入増や支出減への、研究や分析、方策、努力、等々については全く触れず。一路、基金の枯渇が強調されているだけ。関連して'20年9月の「'19年度(R元年度)決算実績報告書」で、曰く「仮に…取崩を継続した場合、機械的な試算になるが、十数年後には…枯渇する恐れ」(P17)。つい3ヶ月前は、こういう、慎重な言い方であったのに、今や「枯渇」だけが一人歩き。コロナの影響による減収の様相が色濃くなってきたという、その後の事情はあるが、しかし9月時点でもコロナの影響はあった。ドタバタ感は否めない。関連して、同報告書は別のページで(P11)「一般財源収入は、対前年度比…の増(ただし、基金取崩しを除くと…の減)」と書いているが、これも危機感があるなら「…の減。但し基金取崩しで辛うじて…の増」等と書くハズ。分析全体の信憑性を疑う必要あるかも。
A3「R8に基金枯渇」。急にR8が出てきた。6年あれば改善は可能。政権交代すればいい。
A4「基金が枯渇し、財政再生団体になる…」。「枯渇」に至る前になすべきことはないのか、枯渇すれば即再生団体になるのか、その過程や他にとりうる方策等の検討が明らかにされないまま市民を恫喝。「財政危機」が葵の御紋だとすれば「再生団体」は錦の御旗か。
A4「取崩しからの脱却には一般財源収入の増加が不可欠。ただし…長い期間を要する。あらゆる施策の…見直しに今すぐ着手…」。一般財源収入の増加とともにムダな支出の見直しも必要。収入増という場合、市長の考えは既存の市税をどう増やすか、或いはセカンドハウス税等、市プロパーの話程度のことで、僅かに対国のレベルで考えているとしても交付税増額が関の山(C9)。大企業減税の法人市民税減収への影響や市民税フラットへの批判的言及等々自民党政府の税財政制度政策への批判的検討抜きに抜本的改善はあり得ない。「国も大変」等の認識では収入増は覚束ない。市民生活はもっと大変。中小含め全国の自治体が団結しうる要求の設定と対国運動を呼びかけてこそ「京都があってよかった」。仮に「見直しに今すぐ着手」としても、同時併行での研究・運動方向検討を妨げるものではない。専門の先生による審議会なればこそ、国の税財政の分析と研究を諮問すべき。
A5「推進本部を設置」。審議会に諮問しながら設置とは焦りの現れではないか。或いは、本部と審議会とのデュアルシステム、ハイブリッドで行こうということなのか。
A5「危機を…改革の契機とし…」。改革の正体見たり何とやら。危機に乗じて、危機を奇貨としてリストラを、との宣言。但し、危機を口実として、と言えるかどうか。この点は議論が要る。とりあえずは「危機」を否定しないとして、しかしではその責任は専ら市長にある。しかも、広義に、今日の自民党政府の中央集権的税財政制度政策の被害者との側面が自治体にあるとした場合、その相手とたたかおうとしないという意味において京都市長は被害者ではなく国と同罪。市民へのしわ寄せは、同罪だからこそ余計に許されない。
B2市債個別の分析等についての検討など一切せず、その道だけとの前提で、「将来へ負担先送り」。そこで次に「先送り」が主語になって、「よくないことだ」。このままでは基金が枯渇云々。他の可能性等を排除。改革だとの結論へ。というよりハナから結論ありき。
Bこういう言い方と前後して、収入<支出、穴埋めに基金取崩、基金枯渇、再生団体、これを避けたい、だから改革だ、との文脈が再三出てくる。短絡的思考の典型。
C審議会でも、要するに支出を減らすために、ここを削れここを見直せ一辺倒の議論に。
B2財政健全化法への批判的視点が皆無。これまた「国言いなり」。元々同法は、財政の中央集権化・地方財政縮小の動き促進の為、自治体に「自己点検・自主規制」を迫る代物。元々「財政再建法」から今日の「健全化法」への改正は当時の竹中ビジョンから出てきたもの。まだ「健全段階」なのにその段階から統制を強化しようとするもの。正に今の市の姿。国が地方財政危機の本当の責任者でありながら、自分たちが作った基準で一方的に判断する仕組み。不名誉の黒字も名誉の赤字もありうる。住民の福祉増進が自治体の役割。数字だけで判断できるものではない。各指標は分母=標準財政規模=交付税を含む数字だから、交付税減らされたら分母が減り判断基準の指標の数字が悪くなる。小西教授は「健全化法のスキームは地方自治の精神に反し好ましくないという見方もある。筆者はそうは考えません」(著書)。財政再生段階では確かに国の関与が強くなるが、早期健全化段階では国の勧告に従う義務はない。
B8市債発行が、なぜ一律に「将来世代への負担の先送り」になるのか。むしろ施策や施設の利用や成果を、今の世代だけでなくおしなべて享受し、ならして負担する意義あり。
「負担を世代間で均衡させるという機能がある」(総務省官僚著「議員の為の分かり易い地方債」)。それは市債の種類や目的の違いによるかも知れないとしても、そうであるならなおのこと、市債毎の分析が要ることになる。一律に「先送り」ではない。
C2「市債残高が高い、減り方が少ない」等が問題視されている。しかし借金とは、その返済計画とセットで借りるのが当たり前。今後、毎年の償還額、または何年後かの一括償還に向けての積立金を、各年度予算化または積み上げて行けばいいだけ。今になって慌てるとは計画性の無さを自己暴露。まして「市債残高が減少しづらい要因」と「基金の取崩」とは別の問題。勿論、毎年の公債費の一定の必要額が高ければそれだけ他の支出項目を圧迫する要因になることは他のどの支出項目でも同じことであるが、これも結局は、借りるときの返済計画立案時点での見通しの問題に帰着する。そこの経過の分析や反省は如何。
C資料も恣意的。特定の結論へ持って行く為の資料づくり。ex.福祉祉経費増と言うが国負担分も。市負担分でも交付税措置も。京都の大企業が国の減税策連動で市民税も減税にとの関係、個人市民税の高額所得者の税率を戻せば約90億円増とのデータ、4.1億円と多くはないが法人市民税率制限一杯までとした場合の資料等等は全く出てこない。委員からの請求もない。市のめざす結論へ向かう為の資料だけ。分析も議論も無し。情報操作。
●基準財政需要額算定も現状を反映せず。国批判すべき。
●交付税トップランナー等への迎合は増額要求と矛盾。逆行。批判が必要。
●'19年度決算中「不用額」は28,918,338千円。特に公債費647,474千円の不用額(「実績報告書」)は、急な償還事例に備えて多い目の予算化が要因とのことだが、審議会資料の中では、こういう要素はどう加味されているのか。
●高速道路出資金113億円の債権放棄も「危機」打開への真剣さを疑わしめる事例だった。

3、責任の所在を曖昧にはできない、市民参加

A1・11「市民の皆様と危機感を共有し…」「改革の必要性を共有」。仮に「財政危機」がその通りだとしてもその責任は、唯一、予算編成権を持っている市長に。賛成してきた議員にも。市民には何の責任もない。自身の責任を棚上げして何か客観的な不可抗力の如き問題の立て方をするのはもってのほか。真の責任の所在を免罪し隠蔽し、ことの本質をそらすもの。「ガマンせよ、まして反対の運動などはご遠慮被りたい」ということなのか。
●昨秋決算議会実績報告書では「市民ぐるみで議論」(P17)とのことだが、全然ぐるみでない。傍聴は当たり前で、市民ぐるみとは全く別。批判的なご意見も含めて声を聞くべき。

4、「改革」に向けての基本的な前提、認識、スタンスはどうなのか

A1B1etc.「国や他都市の水準を上回る施策」や「行財政改革」の成果事例、等々。しかし「全国トップレベルの保育環境」は、歴史的に、京都の民間保育関係者の努力の賜物。現市政の成果でも何でもない(cf.12.28市長「S41年度に開始」)。むしろその遺産を食い潰してきている過程にあるのが現在の到達点というか後退点の現状。市の一連の文書の特徴であるが、全国トップレベル、他都市を上回る等々謙虚さに欠ける。これは情緒の問題というに留まらず、全国の自治体に団結を呼びかける場合のマイナス要因に。
A7「国の基準を上回る…施策…は、少子高齢化により将来世代の負担が過大に」。例えば保育料の「上回る施策」がなぜ「将来世代の負担が過大に」なるのか。「上回る施策」を続ければ将来世代も負担が軽減される。トータルな収支改善への検討抜きに「上回る施策見直し」の結論が先にありきの為、論理が短絡・混乱。他にも、高齢者差別と高齢者にかかる費用を若年層が負担との独断的偏見と分断志向が混在、意味不明の文章に。
B6国基準を上回る・本市独自の事業、B8C1「国からの事業実施の要請の度合いが強いもの・低いもの」等との表現は国言いなり姿勢の反映。この考え方を進めれば自治体が自治体で無くなる。全国どの自治体でも「度合いが強いもの」ばかりの横並びの”自治体”に。
A4「再生団体」になれば「上回る施策は一切できなくなり市民生活に大きな影響」。しかし皮肉にも「…団体になる」前に、今回、「上回る施策」を切り捨てようとしていること自体が既に「大きな影響」。国保料2.9割・保育料3.9割値上げ、他の分野での切捨は「小さな影響」の範囲なのか。敬老乗車証や民間保育園職員給与見直し等は大きな影響ではないのか。「上回る施策ができなくなり…大きな影響」を本当に避けたいと思うのなら、今回の方針は撤回しかない。自家撞着、形容矛盾。場当たり的。都合主義。要するに脅迫か。
A8「自助による取組を基本とする考えを踏まえ」。スガ言いなりの悪のりというか、市長自身の考え。被災者支援に留まらない。政治や行政の役割放棄。何の為に税金を払っているのか。「自助共助互助公助」との設定自体が間違い。
A1「暮らしやすいまちとしていくため…改革に取り組まなければ…」、
B20「職員が意欲を持って働き続けられる職場づくり…」等。ABCともその内容は文字通り「暮らしにくいまち、職員が働きにくく」になっていく方向そのもの。
B3「市民サービスの向上に繋がる改革は…取り組んでまいります」。どういう施策が繋がるのか。今回、例として挙げられている各項目は向上なのか後退なのか。
1/13推進本部市長訓示「今も厳しい状況におられる市民の方々の生活も守らねばなりません…市民の皆様に寄り添って進めてまいりたい」?

5、市民を分断するのはやめよ

A4国保や保育の分野に、被保険者・保護者以外の市民からの負担を強調。
A8敬老乗車証について、「納税者1人当たり…負担に相当」。こんな初歩的なことを敢えて書くのは、無理解というよりむしろ、分断と対立を煽ろうとする意図。そもそも社会保障の在り方や税金の意義、強制性無償性、所得再配分機能、公共サービス資金調達機能等に対する無知を曝け出しているだけ。税金は直接一対一対応しないことにその性格や意義がある。総計予算主義の大原則。
B2・8etc.「市債の発行など将来世代への負担の先送り」。世代間・階層間の分断。「市債には、負担を世代間で均衡させるという機能がある」(「議員の為の分かり易い地方債」)。

6、市の発表する資料への疑問

●昨年11月とそれ以前の資料とで、審議会提出資料等、来年度予算推計において、同じ項目の数字が相当額、変わっている。コロナの影響を加味して再計算したものと思われるが、扶助費や国保操出金等が増加。しかし公債費は、10/8の井上要求資料では来年度860億なのに11月の審議会資料では900億になっている。今年度新規で予定外の市債発行があったとしても、早速来年度に40億も返済額が増えるのであろうか。返済額または将来の返還への積立額としても多過ぎるように思うし、またそもそも借金時点での予めの年次返済計画があるハズなのではないのか。
●特に20/10/1付副市長通知による500億円不足との来年度推計は収支各項目の数字の根拠が不明確。今年度予算と来年度推計を比較すると(単位:億円)、コロナを見越して市税収入が△188は理解できるとしても、ではなぜ交付税・臨財債が93しか増えないのか(併せて△95)。もっと不可解なのは歳出見込み。扶助費76は分かるとしても、投資的経費46、他会計操出44、その他44と軒並み増加。公債費56増も、前述の通りその根拠がよく分からない。「現時点における大まかな見通しを50億円単位で整理したもの」とは恐れ入谷の鬼子母神。全体がラフ過ぎる。にも拘わらず500億だけが一人歩きして市民への脅迫材料になっている(市民新聞2/1号「今後、毎年度500億円もの財源不足が見込まれています」)。
●この間、何点か資料請求しているが(高額所得者、高速道路等)、事務方での膨大な作業を要するとか、そもそもソフトが井上請求の仕様になっていない等の返事。以前請求した入札記録でも同様のことがあったが、市の仕事のやり方についてもどうなのか。

※ 木を見て森を見ないというか、国との関係や累進的発想抜きにいくら議論しても根本的打開の方向は見えてこない。住民福祉向上との視点の欠落、国言いなりという意味で、財政危機ならぬ地方自治の危機。累進性観点抜きの議論は、没階級的というよりも、大企業・富裕層優遇、生計費にまで食い込む庶民負担増押し付けという意味で、資本の利益優先の、まことに階級的な立場と言うべきか。そういえば、実際は改悪なのに「改革」と呼ぶのは、言葉のごまかし・間違いというより、資本の利益代弁擁護の市長とすれば、文字通り「改革」で、彼らにとっては正しい使い方なのかも知れない

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