2024年08月19日(月)
No.234
現職首相が次を目指さないということ自体が、首相個人の失政というに留まらず、政権党全体が国民から見放されているということであって、マスコミはそのあたりのことはどうなのか。個性の如何は勿論あるにしても、首相の政策は政権党の政策であることは言うまでもない。看板だけ代えて何年同じことの繰り返しなのか。確かに今の制度のもとでは、多数党の党首が首相に選ばれるという意味では、一政党の党首選びに留まらない、国民全体にとっての影響が及ぶのはその通りであろう。同じ政党なら、俺が俺がということではなくみんなで話し合って、勿論選挙も経て代表を決める方法もあるし、そういうことは各党の独自問題であるから好きに選んだらいい。しかし一方、自民党の党首であっても、イコール首相ではないという選択肢もあることを、マスコミはもっと提起すべきだ。
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2024年08月19日(月)
No.233
防衛副大臣が、自身の選挙区で、観測船が持ち帰った南極の氷をご披露したということで、公選法違反の疑いありやなしや、いやもう溶けて水に流れた、等々との議論があったが、私は、選挙民への利益供与とか言う前に、なぜ国民全体の財産であるべき貴重な学術資料であるはずのモノが、この場合、明らかに公的ではない政治活動の場で、一部の(選挙区の)国民だけに紹介されるのか、ということをむしろ問題にしたい。党派に属する政治家であっても、選ばれている限り、その活動は国民全体の為のものでなければならず、まして副大臣であれば、当たり前である。例えば訪問による要望聞き取り活動など、政党人としての党活動と、そこでお聞きした声を(反対党支持者であっても)議会で取り上げる等、区別のつかないというか一体的なことであるから、一部の論者が言うように、明確に分けられない面がある。そういうことは私も分かるし、副大臣が、選挙区で自身の活動をされることも勿論自由である。しかし南極の氷といえば、学術的な価値は高いものであろう。仮にその程度の如何は軽重あったとしても、国民全体の財産である。そもそもの持ち帰った目的や使途はどういうものであったか。なぜ副大臣が「自分のものとして」持っているのか、少なくとも今回は公的な使い方では断じてあり得ない。はっきり言って、私物化であり、公の財産を立場を利用して拝借しているということではないのか。これは横流しであり横領である。例の桜を見る会と同じ構図だ。この点に触れるマスコミが多くなく、まして最近の報道はといえば、女子アナの衣服がどうだスタイルがどうだ、どこで採るに足らない話題があった、誰がホームランを打った等々のことが混在し、「ウソを言っている訳ではないが何が真実なのかが分からない」報道が多すぎて、すでに一連のニュース同様、過去に流れ去ってしまっているのは、まことに残念至極である。
さて、北陸新幹線をめぐっては、「与党PT」とやらが大活躍であるが、このチームは一体、制度的にどういう権限を持っている団体なのか。一般的に各党派は、議会での追及や社会的運動の組織化等を通じて自らの政策実現をめざす。与党であれば、同政党の中での議論として、大臣等に選ばれている同志を通じてその実現をめざすルートもあるだろう。自民党の中の議論で「岸田さん、もっとこうしよう」と提案したり発言したりということは、それはその党の自由な議論である。一方、国土交通省はといえば、これは行政でありその仕事は国民全体の為のものでなければならないことは言うまでもない。ゼネコンの為であったり、一部の政治家の為であったりというようなことは、言い出したらいろいろと言えるだろうが、建前としては国民の為の奉仕者でなければならない。ところが、この省とPTとの関係はといえば、これがよく分からない。議院内閣制だからというのも全く理由にはならないし、これは別の問題である。省の情報は国民全体のものであり、全体に開示されなければならない。党派・会派による差別はあってはならないことだし、質問時間とか議会運営上の扱いの違いをどうするかといったようなことは議会の内部規律の問題で、省の云々するところではない。一方、PTはといえば、党である限り、その政策実現は、外から政府に要求するか、若しくは前述の通り党内議論を通じてめざすべきものであろう。PTの議論は議論であり、省に求めることは自由だが、これを採用するかしないかは省の独自判断であって別のものである。PTの思いは、党内での議論を通じて大臣等に求めてその実現をめざせばいい。かつてアメリカではスポイルズシステムと呼ばれた、国の官僚・職員を大統領支持者で固めてしまうことの是非が、政策の貫徹かそれとも野党支持者も含めた国民全体の奉仕者たるべきか、等の議論があり、この教訓が歪められ、日本で公務員の政治活動を、一般職員も含めて禁止するとの根拠とされたという経過があるようだが、一体、今の国土交通省では、与党に奉仕することが自分たちの仕事だと勘違いしているような印象を受ける。個々の政治家が、渾然一体の活動というのは分かる。しかしまた「全体の奉仕者」であるのも然り、まして各省の仕事については「一体」はあり得ない。
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2023年03月16日(木)
No.232
昨年暮れから今日に至る時期に、事態が大きく動いた。2月初旬、市長から'23年度予算が発表されたが、「収支均衡を達成」とのこと。つまり基金から借りたり、特別の市債の発行等をせずに予算が組めたというのである。理由として、 檻運Π削減や 檻下益者負担・市独自施策の見直し、∋埓納入の増、資産売却等、C亙交付税の増額、を挙げている。特に 檻欧砲弔い討蓮◆峪毀韻粒様の御理解と御負担をいただきました」「心より感謝を申し上げます」とも述べている。市民へのしわ寄せ押しつけについては誰も「御理解いただいて」いないし、まして「心より感謝」されても片腹痛い、とはこのことだ。前年度決算では予算より200億円増収、今年度も、昨秋の時点で30億、今回予算議案と同じ提出の補正予算でも一般財源から89億円を充てるとしていること等からも、大幅に当初予算見込みより増収となっていることは明らかであるから、その兆候はあったとは言うべきではあろうが、それでもやはり第一印象として「ビックリ仰天」という向きが大方であったろうと思われる。私も、市長の予算発表について、十分な予測を立ててこなかった、毎日の雑事に追われてそこへの余裕が十分になかった、漫然と予算発表を待っていたという点で不明を恥じなければならないが、ともあれ、結果として以上のような発表であった。本来ならこの時点で、しっかり分析すべきだが、これまた、その予算への本格的対応が始まったために、結局は、これまた毎日の予算委員会の準備等に追われてしまい、ようやく、今に至っているという経過である。とりあえず、その時々の分析と評価の一端は、毎週発行の「議会報告ビラ」(井上HPに掲載)に書いてきたが、本コラム覧では、それも振り返りながら、今の時点での市の財政についての評価を試みたい。思い付き的になるが、とりあえず書き進めることが考えを整理することになっていくと思われるので、まず実践、という発想で行きたい。
とりあえず、市の「財政好転」については、特に収入の過小見積もりをはじめ、「危機」の誇大広告であったことと、市民リストラの彼らなりの「成果」が得られたということであろう。「危機」を理由にした市民犠牲の上に、今回の「好転」に至ったと、一言では言えるのではないか。市税収入の対当初予算比増については、前述の通り元々過小見積もりであったこととともに、税収増自体は事実であり、これをもって市長は「市民所得の向上」との趣旨の評価をしているが、これは私に言わせれば没階級的評価でしかない。市の「予算概要」でさえ、「依然、法人市民税収は、一部事業者への偏りが大きい」と書いている。市の「税務統計」によると、'21年度の数字であるが、資本金10億円超の大企業は法人税割課税対象企業の僅か3.9%なのに納付税金額の68%を払っている。均等割を払う法人のうち法人税割も払うのは、僅か32%にしかならない。68%の法人が、法人税割を納めるだけの利益を得ていない現状なのである。個人市民税についても、私の計算では、課税所得700万円超の市民は4.9%しかいないが税金納付は30.1%となっている。多数を占める庶民はそれだけの税金を納める余裕がない。「市民税が増えた」と言われても実感が湧かないのも当然である。ちなみに、市民所得を低所得階層から高所得層へ分割していくと、これも私の計算では、その所得格差は実に181倍にもなる(井上議会報告ニュース'22/11/13付)。棒グラフで比較すれば1cmと181cmというものである。
交付税増加とも書いているが、これは'22年度から'23年度予算にかけて、確かに534億円から641億円と109億増えているが、臨時財政対策債は299から171へと、128億も減っているから、全体としては833から812億円へと21億円減っている。交付税と臨財債は一体のものとの考え方からすれば、今回、それらの各割合が大きく変わったのは好ましいことだとは言え、「好転」の理由として「交付税増」を挙げるのには少々疑問が残る。
ここ数年の市の「財政危機」について、「危機は危機でその限りでは事実」なのか、それとも口実なのか、まして「市長は『危機』を演出している」のか、ずっと考え続けてきたが、紋切型の批判ではなく客観的な事実に基づく批判との立場に立てば、現象としての「財政危機」は事実は事実であろう。しかしその「危機」は、一方で市役所改築に際してのゼストへの地下通路や「茶室」の設置、少々古い話になるがJR梅小路西駅横の横断陸橋、これからのこととはいえ北陸新幹線や油小路地下バイパストンネル等々のムダ遣い予定と、一方での「集めるべきところから集めない」税収の「空洞化」を棚にあげたままでの、架空の「危機」とも言うべき代物である。「空洞化」はずっと私の指摘の通り、ゞ睛参歙任陵ザ、∋毀雲芭┐離侫薀奪伐修砲茲觜盂杤蠧聖毀韻料蠡佚大幅減税、9颪遼/誉納村租大幅減税が地方自治体法人市民税法人税割の大幅減収に連動、等が挙げられる。要するにこういう支出減と収入増への何らの努力もしないままの「危機」は、その打開への努力を放棄しているという意味では「危機」ではない、と言い得ると思う。精一杯努力してなお果たせない現状ならばこそ「危機」と言えるが、その努力方向については検討だにしない現状である。「危機」は(現象的には)「危機」ではあるが(その打開への努力をしないという意味では)「危機」ではない、とでも言えようか。しかしある意味、大局的には、今日の全国的な地方自治体財政危機(地方財政と言わないのは、「地方議会」とか「地方議員」等々の言い方への私なりの批判があるからであるが、それは別のところでも書いたので個々では省略したい)は、自民党政府の税財政制度政策を原因として、各地方自治体に押しつけられていることは明白な事実であるから、そういう意味では明確な「危機」である。だからこそ私は従来から、今日の地方自治体財政危機打開の為には自民党政府の税財政制度政策への批判的視点抜きには語り得ないと言い続けている。
また一方、例えば前年度決算の超過収入の使途については、「返済しすぎ」とも言ってきた。これは、住宅ローン返済中の家庭に例えるとすると、ある日、思わぬ収入があった場合、それを大口返済に充てて残高を少しでも減らす為に使うのか、成程そうすれば安心の度合いは増すかも知れないし利子負担は減るかも知れないが、一方、借金というものは定額を定期的に返していけばやがて計画通りの年月で完済しうる、とも言える。どちらを採るかと考える場合、その家計の現状はどうかということである。一方で敬老乗車証改悪やヘルスピア廃止等、市民へしわ寄せしながらの大口返済はあり得ない。子どもがお腹をすかし小遣いを減らされているのに返済優先の選択肢はないであろう。改悪を元に戻し、腹一杯食事を提供して尚且つ余裕があれば、という話だと思う。ちなみに、前述の「危機問答」を、この家庭の例に例えると、親「家計危機だから小遣い減らす」、子「家計にムダがないか点検を。職場での賃上げ運動に、例え結果が伴わなくとも全力を。そういう努力抜きに減らすのはダメだ」といったようなことであろうか。
議会の中に目を転じると、ウチ以外の各党の主張は、おおむね、市長の「危機」論に乗った形で、「危機の現状をもっと市民に広報すべし、見える化すべし」というものである。京都党や維新の会では、敬老乗車証の負担金値上げの市長提案以上の上げ幅提案に象徴される如く、市民リストラ推進の立場であるし、ことある毎に公務員の人件費云々、というのはいかにも聞き苦しい。自民党の場合は、ある意味で、まだ商店街や中小企業等々の意向を聞かない訳にはいかない立場があろうが、上の彼等は、そういう意味で遠慮がない。ともあれ、いずれも、この間の市民へのしわ寄せには悉く賛成してきていることはいうまでもない。自民公明民主に至っては、いわば「何でも賛成」が常態化している(もっとも彼等に言わせれば、それは事前に調整済みの事を市長が提案するから賛成は当たり前の事だとの論かも知れないが)。いずれにせよそんなことで、議会での立場の逆方向は明確である。
今後の立場で言えば、市長と我が党以外の基本的論調は、「今はたまたま好転したが、来年以降、またどうなるか分からない」というものである。従来から、無批判的に「財政危機」を強調してきた彼等こそ、今回の「好転」に一番ビックリかも知れないし、その評価に一番戸惑っているかも知れない。そこで「今後不明」としか言いようがないのが実際のところではないだろうか。私に言わせれば、これは事実に即さない「危機」の独り歩き、「危機」の枕詞とでも言うべきもので、特に京都党や維新などは、「万年財政危機論」「永続財政危機論」とでも言えるような、「危機」自体が自分たちの存在意義の前提と思っているようなフシが感じられる。「改革」=「改悪」という意味で、万年改革論、永続改革論とも言うべき代物だと私は思っている。
さてそんなことで、「財政危機」をめぐる私の迷える徘徊、行きつ戻りつの彷徨、青春の蹉跌は一体どこまで続くのかと思っていた矢先、思わぬ大発見に遭遇した。市長が今議会に提案している「行財政運営推進条例」の議案説明書に曰く「都市の成長戦略を加速させる為、引き続き、改革の継続と成長により、財源を確保していくことが重要」。これを要するに逆に読み直せば「財源確保は成長戦略の為」。成長戦略と言えば その本質は大企業本位の京都へ(3/13の予算委員会市長総括質疑で岡田副市長は「成長戦略とは市民生活を豊かにすること」と答弁されていたが、これはどう考えてもムリがあるし、こじつけである。市長の予算説明要旨でも「新たな価値を創造する都市の成長戦略を推進」とあるし、また何よりも「成長」とは財界の総本山経団連の方針書の表題「新成長戦略」なのであるから、仮に引用者が別の意味を持たせようと思っても、それは原典の意味や趣旨と同じ立場からのものであるとの想定は免れない。皮肉の意味で「」等を付けない限り、違う意味で使っているとは、聴く方は思わないし、また思えないものである。市民生活云々と言うのなら、成長などと言わずに、ごく素直にそう言えばいいだけの話でしかない)ということに他ならない。要するに成長とは、アベ元首相流に言えば「京都を大企業が一番活動し易い都市にする」という事に他ならない、と私は思う。要するに、そういうことの為に今後とも財源が要るという、これは表明であり告白である。
規制緩和をして大企業などの利益増大を応援する京都のまちづくりの為にこそ、財源が要る、市民への諸改悪おしつけ=市民サービス切捨ては、お金がないからではなく=「財政危機」がその理由だからではなく、大企業などの利益増大を応援する京都のまちづくり=まちこわしの為にこそ、ということが、ここへきて明らかになった、本音が出た、ということであろう。「『財政危機』その正体見たり何とやら」との表題の所以である。
とりあえず。いろんな角度からの議論の為にも、何としても引き続き議会へ行かなければならない。
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2023年01月06日(金)
No.231
憲法の勉強をしていると、最後の方の第8章に地方自治が出てきて初めて憲法に地方自治が謳われているということに遭遇するのであるが、一般に、たとえザッとでいいから何か一応の最後まで行って全体を見渡した上で改めて各部分を見るといったような方法を採る場合、この方法を憲法に当てはめてみると、翻って、地方自治体もまた、この憲法全体の精神を貫き、具体化する存在でなければならない、というようなことに思い当たる。私にとって。なぜなら、第99条で言う「その他の公務員」には地方自治体の長や各自治体議会の議員、地方自治体公務員も含むとの解釈が通説だからであるし、私もこの説を支持する。だとすると自治体もまた、その憲法擁護尊重義務を負うところの長や議員によって運営されているからである。勿論住民主権の上に立っての代表としてであることは言うまでもないが。
従来は、国との関係で団体自治が謳われ、自治体の運営で住民自治が謳われという流れが主流であったように思う。特に前者は、地方分権という表現で、「一括法」を前後して今も議論が続けられているが、私見では、この議論も、本当に団体自治拡充の議論になっているかといえば大いに疑問が残るし、後者の住民自治の議論はここからは全然生まれてこない。北野弘久教授は「地方自治は…現代における最も基底的な人権保障の為の法的手段」と喝破され、その為には自治体の財政自主権の裏付けが要るとの論を展開されている。これは私のバイブルにもなっており、(「税法学概論第7版」勁草書房'16/9/25)、上の私の「思い当たり」は、「分権論」とはちょっと異なる角度からの発想であり、むしろ北野教授から示唆を得たといった流れに属するものである。
具体的に例示すると、例えば第25条後段「国は…」の「国」には、私見では地方自治体も含まれる。憲法上、「国」が主語になっている条項で、これに地方自治体を含めて解釈すれば却って不自然になるような場合を除き、広く「具体化する存在」として拡大解釈することが可能だと思う。自治体もまた「努めなければならない」と思う。第9条その他の条項で「国民」が主語の場合、勿論その「国民」には地方自治体住民をも含むことは言うまでもない。「住民」が「戦争や武力による威嚇または武力の行使」を「放棄」するというなら、また当該地方自治体もまたその住民の決意を応援し、住民と一緒に「放棄」の為に尽力しなければならないこともまた言うまでもない、と思う。住民自治の立場からいっても当然のことである。実際の地方自治体の運営においても、「社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めな」くてもよい、と解釈して運営している、されておられる訳ではない、と私は解釈したい。「財政が許せばできるだけは務めたい」と、普通は誰もが思いながら運営されておられると思う。 ただその場合、必ずしも、「務めなければならない」という訳ではない、という解釈は有り得るかも知れないが、それとて「務めなくてもよい」とは誰も思ってはおられないであろう。「務めなければならない」程度に違いはあっても、私はやはり上の私見を維持したい。国会運営やまして内閣、司法等の条項はともかくとしても、少なくとも基本的人権や戦争放棄、財政の部分など、地方自治体の運営においても、憲法の考え方が、少なくとも直接ではなくとも、参考にされ拠り所とされるのは、多いにありうる解釈だと思う。これは是非、各条項毎に、専門家の皆さんの研究テーマとして深めて頂きたいと思う。私のような素人判断ではなく。
国が 戦争放棄だと言っているのに、ある自治体だけが、仮に、そこの長個人が軍備拡大核共有論者であったとしても、その自治体としてその自治体の予算で戦車を買い、戦闘機を買うことが許されるのかどうか、これが通常、許されないと解釈されうるのは、国と自治体の役割分担論からではなく、そもそも憲法自体に「買うことは許されない」という基調が存在するからこそであろう。自民党政府が如何にそれを踏みにじっているとしても。国がミサイル発射基地を作るのに、その周辺道路整備を自治体が賄え、といったような話が出てきた場合、その是非の議論の判断基準は、国防の役割分担論ではなく、そもそもの憲法の原則に立ち返るべきである、と私は思う。要するに、基本的人権や、とりわけ社会権の部分だけでなく、第9条もまた、私の言うところの「地方自治体もまた、この憲法全体の精神を貫き、具体化する存在でなければならない」の対象として位置付けられなければならないと思う、という次第である。
纐纈厚教授によると、政治家の責任は「戦争をさせないことが最大最高の仕事」、政治家は「戦争にならない国家…にする任務」とのことであり(「ロシアのウクライナ侵略と日本の安全保障」日本機関紙出版センター'22/11/10)、この説からすると、私も政治家の一員であり、しかも憲法尊重擁護義務を負っている一員であり、加えて上の私見解釈によるところの「憲法尊重擁護義務を負う自治体の、その自治体政府の団体意思の決定」の担い手の一員であるところから、二重三重に、この「最大最高の仕事、任務」を負っているということになる。即ち、私は、憲法の大原則に基づいて、私の思想信条ではなくて、イヤ勿論それはそうなんだけれどもその前に議会の一員としての立場からいって、「戦争をさせない」任務を負っていることになる。それは、京都市議会をして、というに留まらず、戦争をするしないの権限を持つ国会において、という意味をも含む。勿論それは、私は国会議員ではないから国会の場においてという意味ではなくて、国会の外から、そういう国会を許さないという意味で。
ちなみに、私は「地方議会」とか「地方議員」という言い方には意見がある。一般的横断的に言う場合、地方自治体議会、地方自治体議員と言うべきであって、これらを略すなら、自治体議会であり自治体議員である。まして個別に言うときは、私は京都市会議員であって、断じて地方議員ではない。これは、今はなき、京都市職労出身、立命館大学の遠藤晃先生の教えから私なりに学んだ到達である(「財政分析に強くなる」自治体研究社 '90/8/5)。財政の本を書いておられる大阪の初村尤而さんも、遠藤先生から学んだと書かれています。「遠藤先生は『地方財政』という言い方は自治の思想がボケた言い方だと言われています。…私は遠藤先生の境地にはほ遠く…未熟なものですが、それでも遠藤先生の本は今も私の座右の書です」(「新版自治体の財政」自治体研究社'19/4/30)。私井上にとっては、これらは2冊とも座右の書で、だから私は、お二人の先生から二重に学んだことになります。
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2022年12月09日(金)
No.230
国の、大企業・富裕層減税策への追随では、自治体の危機打開はない
このシリーズも、随分ご無沙汰してしまっているうちに、事態はどんどん進んでいる。とにかく市のやり方はスピードも速いし半端ではない。「社会的な諸課題について公が何でもやる時代は終わった」(市長)と言うかと思えば、ヘルスピア廃止は今年度に入ってすぐの5月議会に出てきたし、A/Bを見直すと称して各施設の割合を計算しているかと思っているうちに(市の施設の運営費をB、使用料・入場料などの市民負担をAとして、その割合をやり玉に挙げている)、早速、自転車の駐輪違反を撤去したときの引き取り料について、この割合A/Bを100%にするように値上げした。例えば動物園や美術館などの運営をちょっと考えればわかるように、A<Bは当たり前であって、その割合はあくまでも結果としての数字でしかない。いくらかかるかということと、文化行政として税金で運営されているから、無料にしても構わないところを、いくらかの入園料をお願いするということとは、全く別のことである。
「危機、危機」と言いながら、実は21年度は実に102億円もの黒字であったことも明らかになった。論点は、その黒字分を、前倒しで借金を減らす為に使うか、それとも市民への負担を避けることを優先させたうえで残りを返済に充てていくか、今春、問われたのはそういうことであった。それは市長もある場合には認めていたように、黒字は前年度だけで今年以降はまた分からない、今さえよければいいというわけでもない、とも言っておられた。これこれで論点の整理としては私は分かる。だから問題は、市民へのしわ寄せを避けつつ、且つ返済計画を練り直してそのペースを創っていくということであったハズだ。実際、今年度のしわ寄せ分は約53億、黒字の丁度半分だから、これを撤回しても、未だ、当初の返済計画よりも、一定のまとまった返済は可能であった。返しすぎたことに問題があった。勿論、早く返すことは悪いことではない。誰だって早く減らしたい、早く完済したい。それを先行させるか、その前に市民負担増・しわ寄せを避けつつという条件を付けるかどうか、ここが論点であった。然るに、他の多くの場面では相変わらず「危機危機」の連発で、特に市民しんぶんなどは、「収支が大幅に改善!」と書いておきながら、その同じページで「やはり危機だ」などと、これは私の言う前述の論点に沿ってというより、枕詞というか、その危機の性格の説明抜きに相も変わらない論調で強調するから、結局、論点が曖昧にされてしまう。最早こうなると、「危機」を演出しているのかとさえ思えてくるほどだ。
そこで、今回は、別のページでも紹介している、私の10月3日の代表質問から引用したい。議会論戦のページにその全文を、要約は議会報告ビラのページの各号にて紹介しているので、是非ご参照願いたい。この一文の見出しに書いたように、今日の地方財政危機は、自民党政府の大企業・富裕層への大幅減税政策への批判的視点抜きには論じられないのであって、金融課税にしろ住民税の「フラット」にしろ、市長と自民党政府との、両方併せた批判が必要である。残念ながら、とにかく猛烈に忙しいし今は眠たい。昨夜は10分だけの睡眠であった。きょうも次の仕事への時間が迫っている。国との関係の辺りはまた次回を期したい。
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