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我有り故に我思う

2023年03月16日(木)

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」 その7「財政危機」その正体見たり何とやら

No.232

 昨年暮れから今日に至る時期に、事態が大きく動いた。2月初旬、市長から'23年度予算が発表されたが、「収支均衡を達成」とのこと。つまり基金から借りたり、特別の市債の発行等をせずに予算が組めたというのである。理由として、 檻運Π削減や 檻下益者負担・市独自施策の見直し、∋埓納入の増、資産売却等、C亙交付税の増額、を挙げている。特に 檻欧砲弔い討蓮◆峪毀韻粒様の御理解と御負担をいただきました」「心より感謝を申し上げます」とも述べている。市民へのしわ寄せ押しつけについては誰も「御理解いただいて」いないし、まして「心より感謝」されても片腹痛い、とはこのことだ。前年度決算では予算より200億円増収、今年度も、昨秋の時点で30億、今回予算議案と同じ提出の補正予算でも一般財源から89億円を充てるとしていること等からも、大幅に当初予算見込みより増収となっていることは明らかであるから、その兆候はあったとは言うべきではあろうが、それでもやはり第一印象として「ビックリ仰天」という向きが大方であったろうと思われる。私も、市長の予算発表について、十分な予測を立ててこなかった、毎日の雑事に追われてそこへの余裕が十分になかった、漫然と予算発表を待っていたという点で不明を恥じなければならないが、ともあれ、結果として以上のような発表であった。本来ならこの時点で、しっかり分析すべきだが、これまた、その予算への本格的対応が始まったために、結局は、これまた毎日の予算委員会の準備等に追われてしまい、ようやく、今に至っているという経過である。とりあえず、その時々の分析と評価の一端は、毎週発行の「議会報告ビラ」(井上HPに掲載)に書いてきたが、本コラム覧では、それも振り返りながら、今の時点での市の財政についての評価を試みたい。思い付き的になるが、とりあえず書き進めることが考えを整理することになっていくと思われるので、まず実践、という発想で行きたい。

 とりあえず、市の「財政好転」については、特に収入の過小見積もりをはじめ、「危機」の誇大広告であったことと、市民リストラの彼らなりの「成果」が得られたということであろう。「危機」を理由にした市民犠牲の上に、今回の「好転」に至ったと、一言では言えるのではないか。市税収入の対当初予算比増については、前述の通り元々過小見積もりであったこととともに、税収増自体は事実であり、これをもって市長は「市民所得の向上」との趣旨の評価をしているが、これは私に言わせれば没階級的評価でしかない。市の「予算概要」でさえ、「依然、法人市民税収は、一部事業者への偏りが大きい」と書いている。市の「税務統計」によると、'21年度の数字であるが、資本金10億円超の大企業は法人税割課税対象企業の僅か3.9%なのに納付税金額の68%を払っている。均等割を払う法人のうち法人税割も払うのは、僅か32%にしかならない。68%の法人が、法人税割を納めるだけの利益を得ていない現状なのである。個人市民税についても、私の計算では、課税所得700万円超の市民は4.9%しかいないが税金納付は30.1%となっている。多数を占める庶民はそれだけの税金を納める余裕がない。「市民税が増えた」と言われても実感が湧かないのも当然である。ちなみに、市民所得を低所得階層から高所得層へ分割していくと、これも私の計算では、その所得格差は実に181倍にもなる(井上議会報告ニュース'22/11/13付)。棒グラフで比較すれば1cmと181cmというものである。
 交付税増加とも書いているが、これは'22年度から'23年度予算にかけて、確かに534億円から641億円と109億増えているが、臨時財政対策債は299から171へと、128億も減っているから、全体としては833から812億円へと21億円減っている。交付税と臨財債は一体のものとの考え方からすれば、今回、それらの各割合が大きく変わったのは好ましいことだとは言え、「好転」の理由として「交付税増」を挙げるのには少々疑問が残る。

 ここ数年の市の「財政危機」について、「危機は危機でその限りでは事実」なのか、それとも口実なのか、まして「市長は『危機』を演出している」のか、ずっと考え続けてきたが、紋切型の批判ではなく客観的な事実に基づく批判との立場に立てば、現象としての「財政危機」は事実は事実であろう。しかしその「危機」は、一方で市役所改築に際してのゼストへの地下通路や「茶室」の設置、少々古い話になるがJR梅小路西駅横の横断陸橋、これからのこととはいえ北陸新幹線や油小路地下バイパストンネル等々のムダ遣い予定と、一方での「集めるべきところから集めない」税収の「空洞化」を棚にあげたままでの、架空の「危機」とも言うべき代物である。「空洞化」はずっと私の指摘の通り、ゞ睛参歙任陵ザ、∋毀雲芭┐離侫薀奪伐修砲茲觜盂杤蠧聖毀韻料蠡佚大幅減税、9颪遼/誉納村租大幅減税が地方自治体法人市民税法人税割の大幅減収に連動、等が挙げられる。要するにこういう支出減と収入増への何らの努力もしないままの「危機」は、その打開への努力を放棄しているという意味では「危機」ではない、と言い得ると思う。精一杯努力してなお果たせない現状ならばこそ「危機」と言えるが、その努力方向については検討だにしない現状である。「危機」は(現象的には)「危機」ではあるが(その打開への努力をしないという意味では)「危機」ではない、とでも言えようか。しかしある意味、大局的には、今日の全国的な地方自治体財政危機(地方財政と言わないのは、「地方議会」とか「地方議員」等々の言い方への私なりの批判があるからであるが、それは別のところでも書いたので個々では省略したい)は、自民党政府の税財政制度政策を原因として、各地方自治体に押しつけられていることは明白な事実であるから、そういう意味では明確な「危機」である。だからこそ私は従来から、今日の地方自治体財政危機打開の為には自民党政府の税財政制度政策への批判的視点抜きには語り得ないと言い続けている。
また一方、例えば前年度決算の超過収入の使途については、「返済しすぎ」とも言ってきた。これは、住宅ローン返済中の家庭に例えるとすると、ある日、思わぬ収入があった場合、それを大口返済に充てて残高を少しでも減らす為に使うのか、成程そうすれば安心の度合いは増すかも知れないし利子負担は減るかも知れないが、一方、借金というものは定額を定期的に返していけばやがて計画通りの年月で完済しうる、とも言える。どちらを採るかと考える場合、その家計の現状はどうかということである。一方で敬老乗車証改悪やヘルスピア廃止等、市民へしわ寄せしながらの大口返済はあり得ない。子どもがお腹をすかし小遣いを減らされているのに返済優先の選択肢はないであろう。改悪を元に戻し、腹一杯食事を提供して尚且つ余裕があれば、という話だと思う。ちなみに、前述の「危機問答」を、この家庭の例に例えると、親「家計危機だから小遣い減らす」、子「家計にムダがないか点検を。職場での賃上げ運動に、例え結果が伴わなくとも全力を。そういう努力抜きに減らすのはダメだ」といったようなことであろうか。

議会の中に目を転じると、ウチ以外の各党の主張は、おおむね、市長の「危機」論に乗った形で、「危機の現状をもっと市民に広報すべし、見える化すべし」というものである。京都党や維新の会では、敬老乗車証の負担金値上げの市長提案以上の上げ幅提案に象徴される如く、市民リストラ推進の立場であるし、ことある毎に公務員の人件費云々、というのはいかにも聞き苦しい。自民党の場合は、ある意味で、まだ商店街や中小企業等々の意向を聞かない訳にはいかない立場があろうが、上の彼等は、そういう意味で遠慮がない。ともあれ、いずれも、この間の市民へのしわ寄せには悉く賛成してきていることはいうまでもない。自民公明民主に至っては、いわば「何でも賛成」が常態化している(もっとも彼等に言わせれば、それは事前に調整済みの事を市長が提案するから賛成は当たり前の事だとの論かも知れないが)。いずれにせよそんなことで、議会での立場の逆方向は明確である。
今後の立場で言えば、市長と我が党以外の基本的論調は、「今はたまたま好転したが、来年以降、またどうなるか分からない」というものである。従来から、無批判的に「財政危機」を強調してきた彼等こそ、今回の「好転」に一番ビックリかも知れないし、その評価に一番戸惑っているかも知れない。そこで「今後不明」としか言いようがないのが実際のところではないだろうか。私に言わせれば、これは事実に即さない「危機」の独り歩き、「危機」の枕詞とでも言うべきもので、特に京都党や維新などは、「万年財政危機論」「永続財政危機論」とでも言えるような、「危機」自体が自分たちの存在意義の前提と思っているようなフシが感じられる。「改革」=「改悪」という意味で、万年改革論、永続改革論とも言うべき代物だと私は思っている。

 さてそんなことで、「財政危機」をめぐる私の迷える徘徊、行きつ戻りつの彷徨、青春の蹉跌は一体どこまで続くのかと思っていた矢先、思わぬ大発見に遭遇した。市長が今議会に提案している「行財政運営推進条例」の議案説明書に曰く「都市の成長戦略を加速させる為、引き続き、改革の継続と成長により、財源を確保していくことが重要」。これを要するに逆に読み直せば「財源確保は成長戦略の為」。成長戦略と言えば その本質は大企業本位の京都へ(3/13の予算委員会市長総括質疑で岡田副市長は「成長戦略とは市民生活を豊かにすること」と答弁されていたが、これはどう考えてもムリがあるし、こじつけである。市長の予算説明要旨でも「新たな価値を創造する都市の成長戦略を推進」とあるし、また何よりも「成長」とは財界の総本山経団連の方針書の表題「新成長戦略」なのであるから、仮に引用者が別の意味を持たせようと思っても、それは原典の意味や趣旨と同じ立場からのものであるとの想定は免れない。皮肉の意味で「」等を付けない限り、違う意味で使っているとは、聴く方は思わないし、また思えないものである。市民生活云々と言うのなら、成長などと言わずに、ごく素直にそう言えばいいだけの話でしかない)ということに他ならない。要するに成長とは、アベ元首相流に言えば「京都を大企業が一番活動し易い都市にする」という事に他ならない、と私は思う。要するに、そういうことの為に今後とも財源が要るという、これは表明であり告白である。
規制緩和をして大企業などの利益増大を応援する京都のまちづくりの為にこそ、財源が要る、市民への諸改悪おしつけ=市民サービス切捨ては、お金がないからではなく=「財政危機」がその理由だからではなく、大企業などの利益増大を応援する京都のまちづくり=まちこわしの為にこそ、ということが、ここへきて明らかになった、本音が出た、ということであろう。「『財政危機』その正体見たり何とやら」との表題の所以である。

とりあえず。いろんな角度からの議論の為にも、何としても引き続き議会へ行かなければならない。


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2023年01月06日(金)

自治体議員の立場から岸田内閣大軍拡計画に対す

No.231

 憲法の勉強をしていると、最後の方の第8章に地方自治が出てきて初めて憲法に地方自治が謳われているということに遭遇するのであるが、一般に、たとえザッとでいいから何か一応の最後まで行って全体を見渡した上で改めて各部分を見るといったような方法を採る場合、この方法を憲法に当てはめてみると、翻って、地方自治体もまた、この憲法全体の精神を貫き、具体化する存在でなければならない、というようなことに思い当たる。私にとって。なぜなら、第99条で言う「その他の公務員」には地方自治体の長や各自治体議会の議員、地方自治体公務員も含むとの解釈が通説だからであるし、私もこの説を支持する。だとすると自治体もまた、その憲法擁護尊重義務を負うところの長や議員によって運営されているからである。勿論住民主権の上に立っての代表としてであることは言うまでもないが。
 従来は、国との関係で団体自治が謳われ、自治体の運営で住民自治が謳われという流れが主流であったように思う。特に前者は、地方分権という表現で、「一括法」を前後して今も議論が続けられているが、私見では、この議論も、本当に団体自治拡充の議論になっているかといえば大いに疑問が残るし、後者の住民自治の議論はここからは全然生まれてこない。北野弘久教授は「地方自治は…現代における最も基底的な人権保障の為の法的手段」と喝破され、その為には自治体の財政自主権の裏付けが要るとの論を展開されている。これは私のバイブルにもなっており、(「税法学概論第7版」勁草書房'16/9/25)、上の私の「思い当たり」は、「分権論」とはちょっと異なる角度からの発想であり、むしろ北野教授から示唆を得たといった流れに属するものである。
 具体的に例示すると、例えば第25条後段「国は…」の「国」には、私見では地方自治体も含まれる。憲法上、「国」が主語になっている条項で、これに地方自治体を含めて解釈すれば却って不自然になるような場合を除き、広く「具体化する存在」として拡大解釈することが可能だと思う。自治体もまた「努めなければならない」と思う。第9条その他の条項で「国民」が主語の場合、勿論その「国民」には地方自治体住民をも含むことは言うまでもない。「住民」が「戦争や武力による威嚇または武力の行使」を「放棄」するというなら、また当該地方自治体もまたその住民の決意を応援し、住民と一緒に「放棄」の為に尽力しなければならないこともまた言うまでもない、と思う。住民自治の立場からいっても当然のことである。実際の地方自治体の運営においても、「社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めな」くてもよい、と解釈して運営している、されておられる訳ではない、と私は解釈したい。「財政が許せばできるだけは務めたい」と、普通は誰もが思いながら運営されておられると思う。 ただその場合、必ずしも、「務めなければならない」という訳ではない、という解釈は有り得るかも知れないが、それとて「務めなくてもよい」とは誰も思ってはおられないであろう。「務めなければならない」程度に違いはあっても、私はやはり上の私見を維持したい。国会運営やまして内閣、司法等の条項はともかくとしても、少なくとも基本的人権や戦争放棄、財政の部分など、地方自治体の運営においても、憲法の考え方が、少なくとも直接ではなくとも、参考にされ拠り所とされるのは、多いにありうる解釈だと思う。これは是非、各条項毎に、専門家の皆さんの研究テーマとして深めて頂きたいと思う。私のような素人判断ではなく。
 国が 戦争放棄だと言っているのに、ある自治体だけが、仮に、そこの長個人が軍備拡大核共有論者であったとしても、その自治体としてその自治体の予算で戦車を買い、戦闘機を買うことが許されるのかどうか、これが通常、許されないと解釈されうるのは、国と自治体の役割分担論からではなく、そもそも憲法自体に「買うことは許されない」という基調が存在するからこそであろう。自民党政府が如何にそれを踏みにじっているとしても。国がミサイル発射基地を作るのに、その周辺道路整備を自治体が賄え、といったような話が出てきた場合、その是非の議論の判断基準は、国防の役割分担論ではなく、そもそもの憲法の原則に立ち返るべきである、と私は思う。要するに、基本的人権や、とりわけ社会権の部分だけでなく、第9条もまた、私の言うところの「地方自治体もまた、この憲法全体の精神を貫き、具体化する存在でなければならない」の対象として位置付けられなければならないと思う、という次第である。
 纐纈厚教授によると、政治家の責任は「戦争をさせないことが最大最高の仕事」、政治家は「戦争にならない国家…にする任務」とのことであり(「ロシアのウクライナ侵略と日本の安全保障」日本機関紙出版センター'22/11/10)、この説からすると、私も政治家の一員であり、しかも憲法尊重擁護義務を負っている一員であり、加えて上の私見解釈によるところの「憲法尊重擁護義務を負う自治体の、その自治体政府の団体意思の決定」の担い手の一員であるところから、二重三重に、この「最大最高の仕事、任務」を負っているということになる。即ち、私は、憲法の大原則に基づいて、私の思想信条ではなくて、イヤ勿論それはそうなんだけれどもその前に議会の一員としての立場からいって、「戦争をさせない」任務を負っていることになる。それは、京都市議会をして、というに留まらず、戦争をするしないの権限を持つ国会において、という意味をも含む。勿論それは、私は国会議員ではないから国会の場においてという意味ではなくて、国会の外から、そういう国会を許さないという意味で。
 ちなみに、私は「地方議会」とか「地方議員」という言い方には意見がある。一般的横断的に言う場合、地方自治体議会、地方自治体議員と言うべきであって、これらを略すなら、自治体議会であり自治体議員である。まして個別に言うときは、私は京都市会議員であって、断じて地方議員ではない。これは、今はなき、京都市職労出身、立命館大学の遠藤晃先生の教えから私なりに学んだ到達である(「財政分析に強くなる」自治体研究社 '90/8/5)。財政の本を書いておられる大阪の初村尤而さんも、遠藤先生から学んだと書かれています。「遠藤先生は『地方財政』という言い方は自治の思想がボケた言い方だと言われています。…私は遠藤先生の境地にはほ遠く…未熟なものですが、それでも遠藤先生の本は今も私の座右の書です」(「新版自治体の財政」自治体研究社'19/4/30)。私井上にとっては、これらは2冊とも座右の書で、だから私は、お二人の先生から二重に学んだことになります。

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2022年12月09日(金)

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」その6

No.230

 国の、大企業・富裕層減税策への追随では、自治体の危機打開はない

 このシリーズも、随分ご無沙汰してしまっているうちに、事態はどんどん進んでいる。とにかく市のやり方はスピードも速いし半端ではない。「社会的な諸課題について公が何でもやる時代は終わった」(市長)と言うかと思えば、ヘルスピア廃止は今年度に入ってすぐの5月議会に出てきたし、A/Bを見直すと称して各施設の割合を計算しているかと思っているうちに(市の施設の運営費をB、使用料・入場料などの市民負担をAとして、その割合をやり玉に挙げている)、早速、自転車の駐輪違反を撤去したときの引き取り料について、この割合A/Bを100%にするように値上げした。例えば動物園や美術館などの運営をちょっと考えればわかるように、A<Bは当たり前であって、その割合はあくまでも結果としての数字でしかない。いくらかかるかということと、文化行政として税金で運営されているから、無料にしても構わないところを、いくらかの入園料をお願いするということとは、全く別のことである。
 「危機、危機」と言いながら、実は21年度は実に102億円もの黒字であったことも明らかになった。論点は、その黒字分を、前倒しで借金を減らす為に使うか、それとも市民への負担を避けることを優先させたうえで残りを返済に充てていくか、今春、問われたのはそういうことであった。それは市長もある場合には認めていたように、黒字は前年度だけで今年以降はまた分からない、今さえよければいいというわけでもない、とも言っておられた。これこれで論点の整理としては私は分かる。だから問題は、市民へのしわ寄せを避けつつ、且つ返済計画を練り直してそのペースを創っていくということであったハズだ。実際、今年度のしわ寄せ分は約53億、黒字の丁度半分だから、これを撤回しても、未だ、当初の返済計画よりも、一定のまとまった返済は可能であった。返しすぎたことに問題があった。勿論、早く返すことは悪いことではない。誰だって早く減らしたい、早く完済したい。それを先行させるか、その前に市民負担増・しわ寄せを避けつつという条件を付けるかどうか、ここが論点であった。然るに、他の多くの場面では相変わらず「危機危機」の連発で、特に市民しんぶんなどは、「収支が大幅に改善!」と書いておきながら、その同じページで「やはり危機だ」などと、これは私の言う前述の論点に沿ってというより、枕詞というか、その危機の性格の説明抜きに相も変わらない論調で強調するから、結局、論点が曖昧にされてしまう。最早こうなると、「危機」を演出しているのかとさえ思えてくるほどだ。
 そこで、今回は、別のページでも紹介している、私の10月3日の代表質問から引用したい。議会論戦のページにその全文を、要約は議会報告ビラのページの各号にて紹介しているので、是非ご参照願いたい。この一文の見出しに書いたように、今日の地方財政危機は、自民党政府の大企業・富裕層への大幅減税政策への批判的視点抜きには論じられないのであって、金融課税にしろ住民税の「フラット」にしろ、市長と自民党政府との、両方併せた批判が必要である。残念ながら、とにかく猛烈に忙しいし今は眠たい。昨夜は10分だけの睡眠であった。きょうも次の仕事への時間が迫っている。国との関係の辺りはまた次回を期したい。

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2022年01月27日(木)

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」その5  「財政危機」、「地方自治の危機」から「新自由主義自治体」へ

No.229

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」 その5
「財政危機」、「地方自治の危機」から「新自由主義自治体」へ

 一昨年の秋頃から市の財政についていろいろ考えてきたが、市長が、いよいよ本格的に「改革計画」を具体化するに及び、実践的な議会での議論に追われてきた。落ち着いて考えることを怠っているうちにあっという間に半年が過ぎてしまった。前回「その4」で市長の「行財政改革計画案」について触れたが、その後の大まかな動きは次の如くであった。
 一万件近くの市民からの意見があったにも拘わらず、6月の「案」とほとんど変わらないままその「案」が取られ、8月に「計画」となって発表。その最初の具体化が「敬老乗車証」制度の大改悪であった。その後「学童保育利用料の大幅値上げ」(利用料という言い方にも疑問があるので、以下「保育料」)へと続き、併行して民間保育園職員人件費補助金の削減が、今、その詳細を明らかにしないまま着手されようとしている。障害福祉分野での補助金削減や市営住宅家賃減免制度の見直し等々、条例改正を経ること無く、今春の2022年度予算で具体化されようとしている項目も少なくない。

 昨春も21年度予算についての感想など書き並べてきたが、もう早くも一年が経ち、また22年度予算についても、また自分なりにその評価や分析を加えて頭の整理をしてみたい。その時期がもう間近に迫っている。ただその前に、昨秋あたりから感じてきたことについて、頭の中にだけではなく、文字にして残してもおきたい。今後の市政について考える上でも何らかの参考になるかも知れないし、自分なりに交通整理もしてみたい。書くことは考えることでもある。「言語は実践的な、…現実的な意識であ」る(M・E「ドイツ・イデオロギー」)。

 そのテーマのひとつは「受益者負担論」である。かつて1960年代だったと思うが、雑誌「経済」に「受益者負担というのはイデオロギー攻撃である」との旨の論文が掲載されていたとかすかな記憶がある。間違いかもしれない。しかしその趣旨は、今、市の言い分を聞くにつけ、まことにその通りだとの感が強い。医療にしろ学費にしろ、その他社会保障関係等、そもそも「益」でも無いし、権利として無料に近づけて行くのが社会発展の方向ではないか。「応益負担」という言い方自体からの再検討が要る。社会保険の場合、それ自体も軽減を目指すべきだが保険料を払っているから、まして一部負担は「二重取り」とも言うべきである。一般の損害保険等において、給付を受ける際に負担金支払いなどという話は聞いたことがない(医療保険について、芝田英昭立教大学教授は「我が国においても…『一部負担無料化』を真剣に議論すべき」と書いておられる(自治体研究社「医療保険一部負担の根拠を追う」'19/6/25)。また仮に「益」を前提として考えた場合でも、例えば保育・学童保育の分野では市は「受益者は親」と言うが、この点について、京都保育団体連絡会会長でもある藤井伸生華頂大学教授は「保育の真の受益者は企業主」だと喝破されておられる(「住民と自治」'21/1月号)。私も議会委員会での質問で紹介・引用させて頂いたが、もとより、市理事者にとってはそんな本質的理解にはほど遠く、噛み合った答弁は返ってこない。

 さて今一つのテーマは、今回新たに表題に書き加えた通り、一連の市政の事態の本質は、財政危機というよりも地方自治の危機、そして更に、単に危機というよりも、その危機が、「新自由主義自治体」とも言うべき方向へ行こうとしている、という点についてである。意識しているかしていないうちにかは断言できないが、客観的に市長が行こうとしているのは、正にそういう自治体に他ならないとの思いに、最近、至ったという次第である。
 これまで、市の、ある事業に、「その事業の直接の対象者以外の市民からの税金が注ぎ込まれている」という市の言い分に、それは市民間に対立と分断を煽るものだと私は批判してきた。敬老乗車証然り、国民健康保険然り、学童保育料然りである。また「市民が受けるサービスの水準と負担の水準の均衡」という市の考え方についても、「例えば動物園の運営費は入園料だけで賄われている訳ではない」と反論してきたが、これについては、「いや、これからは入園料だけで賄うのだ」と市長が新たに言い出してきていることについても紹介し、市長は既に私のはるか先を走っている、私の反論は最早時代遅れだと、市長の認識の、到達点ならぬ後退点、市政の悪さ加減の水準について、新たに認識させられた経過についても紹介した(主に「4」にて)。同時に「3」の項では、二宮厚美教授の論も紹介した。曰く「『市場ではサービス享受と負担とが照応するが、財政ではこれが一致せず大衆は負担を回避したまま給付だけは享受できるかのような錯覚が生まれる。これが赤字財政のもとである。この民主主義のいきすぎ論・財政錯覚論』が、ケインズ主義批判として登場し、ここからも財政守備範囲見直し・公共への市場メカニズム適用との新自由主義へと繋がっている…」。つまり、サービスと負担を照応させようとする、1:1対応させようとする考え方を新自由主義と定義するとすれば、正に市長のめざしているのはそういう自治体であるということになる。換言すれば、照応・対応させる考え方を貫く市政をめざそうとしている、これこそ新自由主義自治体と言うべきである、ということになろうか。
 事例を挙げる。21年10月から放置自転車の撤去保管料が「変わります」とか「改定」とかと言っているが、要するに値上げが実行された。しかし更に言えばこれは、単なる値上げではない。市民しんぶんに曰く。「自転車の撤去保管にかかる経費よりも引き取りに来た者の払う保管料の方が少なく、その差額を税金で補填している。そこでその税金補填を0にするための改定」。黄金分割ならぬ、正に「サービス享受と負担との」見事な照応と言うべき着地点である。学童保育料も、値上げの幅とともに、所得による保育料から利用時間による保育料へと変更されたこともまた大問題である。これは単に応能負担から応益負担への変更などという言葉の問題に留まらない。党議員団発対市長宛て「値上げ撤回を求める」申入れ文書に、私は、この部分について「権利としての福祉から買う福祉への変質」と起案した。実は、昨年8月の「行財政改革計画」自体にも、以下のような考え方が打ち出されている。P28「公の施設使用料の総点検」と称し、全体管理運営費Bのうち使用料収入Aの「あるべき割合」を定め、そこへ向かって「使用料等を検討」する、とのことである。そのあるべき割合の最終目標はB=AでありA/B=100%と設定されうるであろう。前述の自転車撤去保管料「改定」では、既にこの「100%」が具体化されている。
 しかし更に、この発想は施設使用料に限定されない。この「総点検」の項では「施設を利用する方としない方との負担の公平性」とコメントされているが、この考えを敷衍し、制度施策全般に拡大しうることは容易に考え得ることである。一方、この制度全般への拡大は、実は、これまでの敬老乗車証にしろ学童保育料にしろ、「市民全般からの税金がいくら投入されている」と、既にさんざん強調されてきていることと同類項である。税金を投入せず、敬老乗車証負担金や保育料だけで賄うという意味でも、やはりA=Bが目標なのである。なお、この施設使用料割合の問題については、昨秋11/4付行財政局発議会総務消防委員会資料でも再度強調されているが、どういうわけか運営コスト全体をAとし、使用料収入をBとしており、今後の引用に際しては混乱のないように留意が要る。些細なことではあるが、市において、一貫性系統性に欠けるとの印象を受ける。
 前述の二宮先生のご指摘の通り、このA=Bこそが「サービス享受と負担との照応」に他ならず、市民の権利とこれを保障すべき行政との関係を、市場原理と同様の関係に置き換えようとするものであり、これが今、市長のめざしている方向、或いは行き着く先であるということができる。「新自由主義自治体」が志向されていると私が思う所以である。

    ※               ※

 しかしこの話にはまだ先がある。A=Bの場合、その負担を賄い得る者のみがその施設や制度施策のサービスを受けることができる。負担できない者は利用できない。弱肉強食、強い者勝ち、優勝劣敗…。一般に、自由競争の場合、持てる者と持たざる者との競争では、ハナから不公平である、平等な競争にはならない云々、大企業と中小企業然り、富裕層と庶民との競争然り、大手と中小とでは、形式的には自由競争だが実質的には公平公正な競争性は働かない、等々。しかし問題はそのレベルに留まらない。その先がある。形式的にすら対等平等、自由競争ではない。強きを「助け」弱きを「くじく」政治によって、むしろ実質的不平等を市長ら自身が助長し増進し、形式的にも不平等状態を創り出しているというところに、今日の国政と市政の大きな特徴が横たわっている。市長において、都市計画における規制緩和然り、企業立地補助金然り、ゼネコン本位の大型公共事業然り、市民税所得割における税率フラット化然り、「国の法人税減税の、市の法人市民税法人税割の減収への連動」への無批判と問題意識欠如等等、その事例は枚挙にいとまがない。新自由主義は、市場原理に基づいて、レッセフェールだ自由放任だ予定調和だ見えざる手だと言うだけでなく、その後の歴史がむしろ社会権や労働基本権を生み出し、しかもその必要性がますます高まっている今日においてむしろ逆に、持てる者応援、格差拡大を意図的政策的に推し進めているのである。京都市の「危機」の本質は狭義の「財政」にではなく、地方自治と地方自治体の「危機」であると、ずっと感じてきたしそう書いてきたが、ではその地方自治体の危機とは何ぞやと自問した場合、私は、この格差拡大政策の採用こそが、本来の地方自治体のあり方を歪める核心であるとの確信に思い至った。そして実はこのことは、結局、この論考の主題である「財政危機」の要因分析やその対処の方向の問題にも帰着することになる。
 「危機」の要因は何か。累進性的観点欠落・減税と都市大企業の集積利益への無理解等々の大手優遇、加えて国追随の交付税削減等と、市内高速道路等大型公共事業のムダ遣いや企業立地補助金等を通じた大手応援が、減収と支出増、つまり財政「危機」を招いた。
 一方、ではその打開方向はどうか。対処の方向として、専らそのしわ寄せを市民生活に押しつけ収奪を強めるとともに、その「危機」の要因である大手優遇を、むしろ「危機打開」の処方箋に書き込み、引き続く居直りで今も今後も推進しまたしようとして増幅させ、また相変わらずの国追随でますます「財政危機」を深刻化させているという現状である。「危機」打開を、口では目指しているつもりが、その方向が、大手優遇庶民劣遇、更には市場原理へ向かうことによって、ますますその「危機」深刻化の悪循環に陥っているというのが、今日の京都市の姿ではなかろうか。

 その他、「改革計画」では、民間化の強調・一層の推進や、Society5.0とかDX推進、等々とも書かれている。前者では、財政から出発してその節減節約の為というよりも、最早、そのこと自体を目的とするに至っている。大企業等に営業と活動の場と機会を提供しようとする目的である。前述のA=Bの発想を基礎としてそこから様々な制度施策施設等のバリエーションを考えれば、その担い手は公に限らなくてもよいとの方向に行くのはたやすい理屈である。後者も結局は国言いなりと大手IT企業等への営業の場の提供という意味で前者と同じ動機から出発している。Society云々については、せめてもう少し史的唯物論の勉強でもしたらどうかと言いたいがそれはともかく、これらの類の記述は、本「計画」が、財政危機打開と言いながら実はその本質は狭義の財政にはあらずということを示している。市民の権利とこれを保障すべき市長の義務という関係を、その権利でさえ営利の対象に差し出そうとする強助弱挫または助強挫弱(強きを助け弱きを挫く、との井上造語)の自治体を志向するところの「計画」に他ならない、というのがコトの本質ではなかろうか。市長が「目指している」とは私も言い難いが、客観的には、今の路線を採る限り、そういう自治体への変質転落への道に通ずるとは断言できる。この道は、必ずや市民の総反撃を受けてやがて挫折するであろうと確信する。これは歴史の必然である。 

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2021年10月13日(水)

市「上質宿泊施設要綱」は廃止すべき

No.228

仁和寺門前における上質宿泊施設候補の選定は無効だ     2021/10/6   井上けんじ

 今春、市の「上質宿泊施設誘致制度要綱」にもとづき、事業者からの計画の提出、これを受けた有識者会議開催を経、市において、本計画を上質宿泊施設候補として選定と、4/19付、広報されている。そこで、以下、この選定は間違いであり取り消されるべきである、もっと言えば、上記制度自体の廃止を求める、との立場から、その根拠等について、自分なりに頭の整理をしておきたい。
 本制度は、「上質云々」と銘打ってその上質とやらの各指標である歴史や文化、地域の活性化への寄与等々を審査の対象とするという建前を装っているが、実際は、原則、違法であるところの「制限区域」での施設建設を、何の手続きも経ることなくハナからの前提として既成事実化してしまうという点にある。ここが問題の本質である。その「制限区域」での例外を、何の根拠もなく、また手続きも踏まず、所与の前提としたうえで、質の程度や可否の問題にすり替えているのである。上質か下質かは、程度の問題であり主観的なもので、本制度の根幹でも何でもない。本質を隠すダミーであり隠れ蓑でありイチジクの葉っぱにすぎない。論点が意図的にそらされている。
 要綱のフレームは以下の通りである。即ち、事業者が上質たる計画を立案、市に提出、市長任命の有識者の意見を聴取、市長が上質候補として選定の可否を判断、選定されれば、その「質」を維持する為に事業者は引き続き努力していく。更にその後、次の別制度に基づく手続きに移行していくことになる。しかし、である。本制度は、提出すべき計画をどこで具体化するか、どこで立地するのかと言えば、それはそもそもの前提として「制限区域」だとされている。「上質宿泊施設計画」とは、「制限区域」内での計画のことをいう、というのが要綱上の定義である。「制限区域」外での施設建築の計画や申請は、そもそも本制度の対象にはならない。五つ星の超上質施設を計画し、市に提出しても、宿泊施設建築可能な地域地区での計画である限り、受理すらしてもらえないとの仕組みになっている。一方、審査の対象とされたが選定されなかったとしても、手続き上は何の障害にもならない。今後の別の手続き上、不利になるとか、市民的な評価がどうであるとかの影響は免れないとしても、「建ててはいけない」とはならない。そもそも、本要綱にはそういう想定については何らの規定もない。「上質」かどうかは問題の本質ではないのである。
 周知の通り、建築基準法第48条では、一定の地域では宿泊施設は「建築してはならない」が、例外的に、特定行政庁が「許可に利害関係を有する者の出頭を求めて公開により意見を聴取し、かつ建築審査会の同意を得」たうえで許可すれば、「この限りでない」とされている。つまり、制限区域での建築は、厳重な手続きを経たうえでなければ許可されないのである。そんな手続きは誰も踏んでいない。今の時点では、原則通り禁止されている状態なのである。然るに、本制度は、そもそもからその「制限区域」での計画立案が前提とされている。上質かどうかの判断以前、それどころか何らかの計画の提出の有無以前、有無にかかわらず、要綱の存在自体が、法律上の手続きを勝手に踏みにじり、法律上の「例外」を既成事実化してしまっているのである。
 昨年1/24の市議会常任委員会での私の質問に、担当部長は「様々なプロセスを全て通ったうえで」、「選定されたものが自動的にそのまま許可を受けられる訳ではない」等と答弁されておられた。確かに、今後、建築基準法に基づく手続きに移っていくし、そこでのハードルがあることはその通りである。同法での手続きのキモは、市長が例外を認めるかどうか、建築審査会の同意を得られるかどうか、にある。然るに、そのハードルは、この上質制度が、その例外の可否の判断の本命である同法48条の手続きに先立って、既に前提的にクリアしてしまっているのである。審査を経て、認める認めないを決めるのではなく、制度の枠組みそのものが、既に例外を認め、制限区域での立地を前提としたものとして設計されているのである。本制度で上質と選定されなかったとしても、その後の建築審査会での審査を何か左右するものでもない。委員の心証には影響があるかも知れないが、基本的には別の手続き・概念であるから、建築審査会は、あくまでも都市計画法と建築基準法の趣旨に則って判断されるべきであろう。事業者にとっては、「上質との選定」がカギなのではない。提案が受理された段階で(制度的には制度の存在の段階で)、その時点で建築基準法上の例外が認められたことになるという規制事実が得られるのである。繰り返しになるが、「制限区域」での計画が、本制度上の計画であるからである。受理は市長の権限であるから、既にこの時点で市長の「意思」は明白である。建築基準法上の要件を満たさずに、市長は独断で「許可」しているのである。そのこと自体が、要綱が法律の規定を超えており法律のルールを無視しているから、要綱のこの部分は違法であり無効である。またこんな状態で建築審査会が、その後の手続きとして開かれたとしても、既に市長の意思は明白、どころか圧力として働くであろう。制限区域での計画を既に受理されている提案に異を唱えることが、市長任命の審査委員に可能であろうかとの危惧を禁じ得ない。
 一般に何らかの申請において、複数の諸手続きを経なければならない場合、行政等の各部署は各々の専門性に応じて夫々のハードルを設けて審査するのであって、同一の部署が複数の要件を審査することはあっても、通常、同一の要件を複数の部署が審査することはない。然るに本件事例では、「制限区域」での建築の可否を、異なる部署と方法によってダブルチェックとされている。というより、まず本制度での手続きはチェックではなく、ノーチェック、どころか、そもそも制度の前提とされている。本要綱は、「制限区域」での建築の可否を審査するためのものではなく最初からの前提としている。「諸手続きのうちの夫々のハードル」との答弁はあたらない。上質の可否の選定との外観を装って、制限区域での建築許可を既成事実化しようとするのが、本制度の本質なのである。
 そもそもその要綱を定めたのが市長であり、今春、候補として選定したのも市長である。事業者から計画の提出を受け取った時点で、仮にその後、上質とは言えないとの評価であったとしても、既に受理の時点で、市長の意思は既に明確である。その後、建築審査会が開かれても、結局は「出来レース」にしかならないことが危惧される。市長は、虚心坦懐、心涼やかに審査会の同意の有無に素直に従うということではなく、既に「上質〜」の手続きにおいて「例外を認めるとの許可」を強力にアナウンスしているのであるから、これは、審査会各委員の、都市計画法と建築基準法の趣旨に則った純粋な判断に対し、制度としてプレッシャーをかけてしまうという構造になってしまっているということである。穿った見方をすれば、本制度の本質は、「上質云々」ではなくて「制限区域」での建築を可とするものであるばかりでなく、結果として、ではなく、元々、この「制限区域」での建築を、利害関係を有する者の意見聴取や建築審査会での審査の前に、予め認めてしまおうとするものである。
 憲法違反の法律は無効であり破棄されなければならない。法律違反であり、法律の手続きに介入する要綱は無効であり破棄されなければならない。個々の条項が違反でありその部分が無効というよりも、本制度は「制限区域」での建設を前提とした制度であるところから、制度全体が最早無効である。引き続き市を追及していきたい。 以上


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