過剰生産について
No.217
いずれ深めなければならないテーマとして、過剰生産が、消費者の購買力(の小ささ、少なさ)に対しての過剰なのかどうか。従来のテキストでは専らそういう解説だと思う。消費者の多数を占める労働者の賃下げが資本の動機であり、一方、その同じ資本の本性として造った商品の販売も不可欠である。売らなければならないが、それを買うべき労働者の購買力は逆に低めるように動機付けられる…。資本主義の矛盾とは何ぞやという場合、それは社会的生産と私的個人的取得の矛盾だとか、生産の無政府性だとか、そして上の生産と販売の関係だとか、いろいろ言われてきていると思う。
そこで私の疑問は、購買力に対しての過剰というより、ある種の商品にとっては、購買力に対してというより、最早、社会的絶対的に過剰生産なのではないかという点にあります。思うに、自動車なんかはその典型だと思いますが如何でしょうか。国民が、誰でも自動車を買うだけの購買力を得て、需要と供給のバランスが取れる、或いは供給される自動車が過剰になることなくその需要が賄われる、というような状態が想定されるとすれば、それは私見では最早自動車過剰社会であって、その分母は購買力というよりも社会環境そのものであると私は思います。
ペットボトル然り、ある種のゲーム機然り。そしてこの考えを敷衍すると、勿論、戦争や原子力発電、ある種のコマーシャル等等も、購買力との関係という枠組みからは外れるかも知れないが、膨大な「過剰生産」であることは疑いを入れない。
ちなみに、私見では、科学技術の発展が、即、人間の精神的活動・文化的活動の前進発展に直結するかどうかは、大いに疑問を感じている昨今であります。
全体として労働時間の大幅短縮が可能だし、社会的な膨大なムダを省けばそれは可能である。勿論それは結果であって、政治を変えることが、その為にも、先決であることは当然であるが。
他日を期して、こういう点について整理したい。