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我有り故に我思う

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」その3

No.225

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」 その3
(コラム欄、及び議会論戦、議会報告ニュース欄等もご覧下さい)

1、審議会答申への感想

 3月23日に「行財政審議会」の答申が出され、一応の段落を見た。本来ならこの時点で感想とか評価とか、一定の論評をすべきであるが、私としては、今まで書いてきたことで、概ねの感想は尽きている。はたして、審議会答申は、これまでの議論をまとめられただけで、目新しいと思えるものはほとんど何もない。辛うじて、「コロナが収まるまでは弱者に対する施策の見直しは配慮を」との趣旨のコメントが付け加えられたが、これは小西教授のせめてもの良心と言うべきか。しかしこの配慮も、答申全体の基調に何らかの影響を与えるものでもない。悪く言えば、言いたい放題のまま審議会はその役割を終えた。そのポイントを端的に言えば、「収入を超える支出を続け、その差額を基金で補填し続けてきた。このままではその基金が枯渇する。その超える支出とは主に福祉分野であるからここを削って収支均衡させ、もって基金からの補填をやめ基金の涵養を図る」といったようなことであろう。まことにとんでもない答申と言うべきである。
 一番最初に書いたように、財政の議論をしているのに累進性的発想がないことと、国との関係で議論する観点が全く欠落している。一自治体の中の「穴掘り闘争」だけで、今日の地方財政危機、従って京都市の財政危機も、根本的には何とかなるわけではない。「相手のある話は即戦力にはならない」というのは言い訳であり弁解であって、要するに避けているだけのことでありそもそもそういう視点が無いだけのことである。「国いいなり病」が市長だけでなく審議会にも蔓延している。審議会なればこそ、中期的な見通しも持ち一定は研究的な要素も加味した答申とすべきなのであり、そうしてこそ「学識経験者」の皆さんの知恵の結集たる答申と言うべきなのであろう。自治体とは、まず住民の福祉増進の為のセルフガバメントなのである。その議論が無い。その為の出ずるを量ることが先決なのであって、その前提の上に、ではその為の財源をどう賄うか、入るを制すという順序なのである。とはいえ現実にはそういう原則通りにはいかないのも事実で、ではなぜいかないのか、その追求は結局は国の行財政制度政策の壁にぶつかることになり、従って原則の回復の為には、その壁を批判的に乗り超えることが不可欠の課題になってくる、という、まずその道筋の認識が必要なのである。
 いやいや、しかし最早これ以上はもう言うまい。よせよせ問答。むしろ私にとっては、この答申を援用しながら市が現在準備している、実践的な「行財政計画」の方が一層要注意である。新年度に案が出され、パブコメを経た後に案が取れるとされている。新しい年度が始まったばかりとはいえ、早くも来年度再来年度に向けての攻防が始まっている。

2、一般会計予算全体への感想(予算議会を振り返って)

(1)3月12日の再起支援補助金補正予算委員会では次のように指摘した。「元々財政は出量入制。求められる政策が先にありその為の必要財源を賄うとの原則。今回の預託金がその証明。家計とは違う。しかしその原則通りにいかない現実がある。ではなぜいかないか、その追求は国の税財政制度政策への批判的検討に行き着くが市はその視点が欠落。どころか、収入の範囲での施策=入量出制という現実論から言っても不十分。”要な課題をハッキリさせた上で、しかし-1財政の制約で困難だと思うか、いや-2お金を造ってでも対処しようと思うか、その論点に行く前に必要課題明確化の視点が欠落」。

(2)これは本予算案についても言える。即ち、一般的には-1「住民福祉の増進」、-2今日課題的にはコロナ対策、またはその他の必要課題設定の議論抜きに、しかも△-1または-2の検討もせず、一足飛びに、ハナからの「財政危機」論に飛躍していることが、市の予算方針の最大の特徴であり問題点である。

(3)そこで、-1住民福祉の分野で言えば、まず少なくとも、重度障害者等利用事業所支援事業補助金の見直し、私学高校教育奨励助成廃止、乳がん検診廃止、被災者住宅再建支援制度廃止、生活保護世帯修学旅行援助金削減等については、仮に-1の検討をしたとしても全く妥当ではない。市民生活の最も基礎的な部分だからであり到底容認できない。-2の部類に属するからである。保育料や介護保険料の値上げ、印鑑登録証再交付手数料や自立支援医療診断書料の新規徴収も認められない。

(4)-2コロナ対策で言えば、ワクチン接種と制度融資預託金が、方針上も、従って額としても中心を占めており、感染拡大防止策では、その為の現下の課題である検査の拡大充実が時宜にふさわしく位置付けられていない。国においては、科学的知見の軽視と自己責任、ポストコロナへの傾斜が中心であり、市も多分にこの影響を受けていると言える。現状認識と分析の不足、課題の抽出・設定が不明確で、市民へのメッセージも不明確である。経済対策も購入・調達の事後的実費補填だけで、減収分自体への給付金支援は、市独自としては皆無。最新の補正予算の再起支援補助制度で辛うじて今後の家賃補助がメニューに載ってきたことは一歩前進ではある。相談対応や申請手続きなどの民間化が進められ、直接的な公的相談窓口が狭くなりデジタルデバイド等ハードルが高くなっている。

(5)予算案全体の特徴としては、まず上記(2)〜(4)の各項の通り、ささやかで身近な市民向け施策の切り捨てと、コロナ対策の不十分さが挙げられる。後者については、対策の前提としての実態把握の不足、現状認識と課題設定が必ずしも的を射ているわけではないことが、不十分の要因である。更に、際限のない「民間活力の最大限の活用」路線で、公務が民間企業の営利事業の対象に提供されていること、国言いなりのデジタル化とマイナンバーカード強要により窓口の縮小や個人情報保護流出、監視社会化が危惧されること、さらには「クラウド」により自治体の情報が文字通り雲の中で、施策の国基準への横並び、団体自治の後退等々が危惧されること等も特徴である。首都圏からの誘致、海外からの京都創生への支援獲得、都市間競争、成長戦略、等々の言葉が踊る。土地のみならず空間の活用まで打ち出す有様で、単なる景観破壊に留まらず、大手誘致による、「健康で文化的な都市生活」よりも「機能的な都市活動確保」(都市計画法ではこの順序で基本理念が謳われているのに)を優先させる方向がめざされている。被災者住宅支援策打ち切りの理由として「自助」が掲げられ、これ自体、スガ政治言いなりの具体化でとんでもないことであるが、更に住宅支援に留まらず、(2)にて前述の通り既に市政全般に一般化され他の分野にも広げられつつある。団地再生、管理・公募戸数の適正化・最適化も「住まいは人権」への行政責任放棄、住宅分野における自助押し付けの具体化である。来年度以降も視野に入れた方針とされている。

(6)しかし何と言っても予算案の最大の特徴は「財政危機」一辺倒が、その基調になっていることである。昨年9月の'19年度決算実績報告書では「仮に…取崩を継続した場合、機械的な試算になるが、十数年後には…枯渇する恐れ」とのことだったのが、その直後から、突如「5年後の'26年には枯渇」と強調され、これが一人歩きしている。「危機」論自体の検証と精査が必要である。
 −1)まず「枯渇」論の検証が要る。そもそも昨秋からの「500億円不足」説も、収入支出の各項目の額の根拠が不明確で、数字も大変ラフなものであった。「現時点における大まかな見通しを50億円単位で整理したもの」とのこと。にも拘わらず500億だけが一人歩きして市民への脅迫材料になっている(市民新聞2/1号「今後、毎年度500億円もの財源不足」)。しかし予算書では、この500億が236億になりしかもそのうち123億はコロナ影響とされている。取崩額は181億と言いながら、コロナがなければ58億である。この点で慢性「危機」とコロナによる急性危機との混同がある。元々、基金を取崩して補填しなければならないかどうかの前に、その前提として今後の各年度の収支の各見込み方の精査が必要である。特に投資的経費や新規政策枠の根拠が薄弱である。答弁では「現時点での試算、今後毎年精査していく」と今後の変動の可能性も認めている。基金取崩しの前提が、いわば架空の楼閣とも言える代物なのである(この点に関連し、自民党も「収支不足穴埋めに今後も基金を補填し続ければやがて枯渇する」との市の言い分を批判している。おもしろい。しかしこれは、もっとも、と言うか、但し、と言うか、「基金を補填しなくてもいいように収支均衡させよ、もっとリストラを強化せよ」という趣旨なのであるが。この発想には公明等も賛同している)。
 −2)次に、今日の財政状況に至る過去の財政活動の総括が必要である。「脆弱」論は言い訳に過ぎず、後述の通り、交付税増額要求の焦点を曖昧にするだけである。市税が少なければ、国において交付税措置されなければならないし、その合計額が少ないのは交付税が減らされていることに起因する。地下鉄東西線建設における相次ぐ契約変更による建設費大膨張、「渋滞解消」のはずだったのに閑古鳥の鳴いている高速道路の市負担だけでも600〜700億円もの浪費、「戻ってくる」との約束を反故にしてその高速道路への出資金113億円の債権放棄、JRの事業なのに市からも15億投入の梅小路新駅とその隣の6億円の横断歩道橋、等々、深刻な反省が要る。法人市民税の国税化にも全く無批判的に追随し、法人市民税減収を招いている。三位一体改革の本質は、僅かな税源移譲と引き換えに交付税の大幅減額であったが、はたして今日その通りになっている。当時その国の意図が見抜けなかったとしても、今日、その結果から見れば批判的反省的な総括が必要なハズである。
 −3)ところが、市の、総括と現状分析は「財政危機は…国基準を超える福祉施策等…が大きな要因」というものである。審議会の議論の基調も然り。しかしこの短絡思考については、前述、3(1)--にて既に反論済みである。△-1または-2の議論の前に、\治はまず何をしなければならないかの議論が欠落している。その上で、では現状の確かに財政制約の中で、以下に後述の通り歳入増歳出減への努力や検討はどうかと言えば、これは全く不十分であると言わなければならない。
 −4)そこで、歳入増への努力はどうか。法人市民税法人税割について、制限税率一杯までの税率引き上げの党の提案に背を向けている。「超過の税率だけを議論するのは妥当かどうか」(鈴木副市長)等との答弁は、そもそもの税収増志向自体を疑わしめるものである。法人税減税の影響が法人市民税法人税割税収に影響があることは予算委員会で認めたが(林税務部長)、かといって国に声を挙げるわけでもなく、現状追随の姿勢であった。個人市民税所得割についても、高額所得者の税率アップを提案したが、これもフラットを是とし、党の提案に背を向けた。「せめて三位一体改革以前のように三段階をとは思うが税法の「同一税率」との規定が壁になっているのか」との私の問いに、部長は「町会費と同じ」と、市自身フラットを是とする答弁であった。「町会費論」は課税の根拠ではあっても、フラットとの根拠たり得ない。利子や株の売買収入にかかる住民税は府民税だけであるが、率は僅か5%であり、この税率をアップさせ、府税交付金アップに連動させれば、市にも環流されると提起した。辛うじて資産性所得の税率アップを要求していると答弁はしたが課題意識は極めて弱い(ちなみに'19年度決算による府の収入は、利子割525,722千円(うち、市への収入は'19年度決算で192,128千円、以下同)、配当割4,361,800千円(1,555,705千円)、株式等譲渡所得割2,382,830千円(851,842千円)。仮にこの税率が10%としてその2倍化がそのまま市への交付金に反映するとすると、ざっと25億円の増収が得られることになる)。ちなみにこの5%も例によって地方税法で決められているが、仮にまず5%でもいいから自治体で決められるように、国のおせっかいはもうやめるべきではないか。交付税増額とは言っているが、一方でトップランナー方式等交付税の性格を歪めるような動向に迎合しているようでは腰が据わらない。市独自で「非居住住宅税」を検討中であるが、対象や税率等論点未整理部分が多い。大企業・富裕層と国への遠慮と追随が先行し、累進性的発想が極めて弱い。歳入増への意欲は感じられず、「財政危機」を疑わしめる。
 −5)審議会では、新税は時間がかかる、対国は相手のある話と言って、目先の切捨策に終始しているが、今日、市においてはこういう弁解すら聞こえてこない。目の前の課題への対応と歳入増への議論や研究は併行し得るし、この議論等は課題対応を妨げるものではない。'26年基金枯渇論は別にしても、市の「今後の財政見通し」との表等では10数年スパンでの予測となっているが、一方で、国の税制は年毎の予算で変更されている。国の政治さえ変われば自治体財政危機打開への展望は大きく開けていくが、その為にも地方自治体サイドから政策的発信を続けていくことが欠かせない。
 −6)一方、歳出減への努力はどうか。企業立地補助金について、大企業除外を求めたが、「中小企業も対象」などと論点をそらす答弁。北陸新幹線については「財政極小化を」と何の裏付けもない単なる願望を語るだけ。堀川・油小路地下バイパストンネルについても指摘した。芸大は今からでも凍結すべきと求めた。福祉三施設統合や、統廃合による学校新設費用についても質した。今もまたマイナンバー押しつけに広告費などを使っている。
 −7)このように見てくると、市の言う「財政危機」を単純に所与の前提として受け容れる訳にはいかない。この点は、他党と我党との決定的違いである。現状打開に向けた我々の積極的建設的問題提起や提案に対し、一顧だにせず、弁解と言い訳、論点そらしと居直りを繰り返していることは、「危機」そのものの内実を疑わしめるものである。まして、施策の切捨や市民負担増は、仮に「危機」がその通りだとしても絶対に避けなければならない類のものである。政策の方向が全く逆向きとなっている。税収における累進的発想と国の税財政制度政策への批判的検討抜きに今日の地方財政危機打開はあり得ない。市の本当の病は、財政危機というよりもむしろ、市民リストラ以外に危機打開への方向を見いだし得ない展望なき短絡思考と思考停止病であり、自治法で言う「住民福祉向上」との視点の欠落、国言いなりという意味で、自治体の精神を失った地方自治の危機とも言うべきである。

(7)市民分断と「危機共有」論も市長予算提案の特徴である。敬老乗車証や保育料、国保料などについて、70歳未満の市民や保護者・被保険者以外の市民からの税金がいくら含まれている等と強調されている。予算委員会では、市民の間に分断と対立を図ろうとするもの、との立場から批判した。同時に、税金や社会保障の在り方、性質、意義、所得再配分機能、総計予算主義等、即ちある制度がその負担金や利用料使用料等直接の制度利用者の負担以外の一般財源から支出されるのは当たり前のことであるとの立場からも批判した。端的に私は、「市長の給料は市長の払っている税金だけで賄われているのか!?」と批判しているが。なおこの問題について、古本であるが最近読んだものの中に次のような趣旨の指摘を発見した。「『市場ではサービス享受と負担とが照応するが、財政ではこれが一致せず大衆は負担を回避したまま給付だけは享受できるかのような錯覚が生まれる。これが赤字財政のもとである。この民主主義のいきすぎ論・財政錯覚論』が、ケインズ主義批判として登場し、ここからも財政守備範囲見直し・公共への市場メカニズム適用との新自由主義へと繋がっている…」(1998年、新日本出版社「日本財政の改革」所収「財政構造改革路線と社会保障構造改革」二宮厚美先生)。即ち新自由主義者にとっては、上記「一般財源からの支出は当たり前」ではない、まことに荒唐無稽な論であると言わなければならない。併せて、実は先生のこの論は、「収入以上の福祉支出が財政危機の要因」との前述(6)−3)での「市の総括」への先見的な批判にもなっている。さすがは二宮教授。あらためて敬意を表し、目を見開かされる思い。市債の発行が将来世代への負担の先送りとの言い分も世代間・階層間の分断を図るものであり、むしろ「負担を世代間で均衡させる機能」があるとの立場から批判した。

(8)市長は再三「市民と危機感を共有…」を強調。仮に「財政危機」だとしてもその責任は、唯一、予算編成権を持っている市長と賛成してきた議員にあり市民には何の責任もない。自身の責任を棚上げして客観的な不可抗力の如き問題の立て方をするのは、結局、真の責任の所在を免罪し隠蔽し、ことの本質をそらすもの。この点についても指摘し批判した。

(9)財政規律からの逸脱やふるさと納税についても批判し問題点を指摘した。例えば法人市民税の超過課税分が「産業振興や社会基盤整備等に活用」との市の説明であるが、諸税目収入が市の財布に入りそこから必要な各項目に支出されていくという総計予算主義からの逸脱であり、その背景には市民には容赦がないのとは対照的に大企業への遠慮があることを指摘した。ゴミ袋代の「財源活用」も、活用と言うなら手数料流用であり、同額を活用というならそれは単なる一般会計の使途の問題に過ぎないと、その矛盾を指摘した。ふるさと納税についても、本市への寄付収入以上に、市民の他自治体への寄付による市民税流出の可能性を排除できないことによる減収の恐れを指摘した。「地場産品の返礼品で勝負」との答弁であるが、+の場合でも結局は他自治体との±による都市間競争を煽るものであることを批判した。財政規律で言えば、他自治体へ寄付した市民は市民税控除で市の言う「町会費」すら免れることになる問題点を指摘し批判した。

(10)上述「財政危機一辺倒予算」が、再来年度以降も引き続く一里塚と位置付けられていることも、大きな特徴であり、問題である。憲法や地方自治法では、内閣や市長が作成して議会に提出…しなければならないのは「毎会計年度」の予算であるから、それこそ私が議会報告ニュースで書いたように、「来年のことを言って鬼も怒っている」、もっと言えば年度毎提出原則に抵触の疑いがある代物である。3年間を「集中改革期間」と設定し、既に1/13に推進本部を発足、新年度に、議会への報告やパブコメを経て「行財政改革計画」を打ち出す予定とされている。予算自体ではないが、既に、諸方針文書等により、'22年度に向け、消防音楽隊(これについては再考も有り得るような答弁ではあった)、民間保育園プール制、福祉医療子育て支援受益者負担、敬老乗車証、施設使用料、市営住宅家賃減免、ヘルスピア、団体補助金、受益者負担の在り方、補助金支援金等々を見直す、施設の統廃合を集約化、等々と予告され、4年間で760億円を生み出すとしている。

(11)「再生団体」になると国保料や保育料が3割4割の値上げになる、「上回る施策はできなくなり市民生活に大きな影響」と強調されている。しかし皮肉にも「…団体になる」前に、今回、「上回る施策」を切り捨てようとしていること自体が既に「大きな影響」なのである。国保料2.9割・保育料3.9割値上げなら「小さい影響」で許容されるというのか。再生団体化を防ぐはずの敬老乗車証や民間保育園職員給与見直し等は大きな影響ではないというのか。「上回る施策ができなくなり…大きな影響」を本当に避けたいと思うのなら、今回の方針は撤回しかない。「持続可能性」とは、廃止はしないけれどもそのすぐ手前の2.9割3.9割値上げ状態迄なら許容されるという意味に他ならない。市民にとっては、この時点で既に持続していない状態であると言うべきであろう。

3、国予算の特徴として、財政部門では地方財政総額据置きの他、インバウン
ド重視、ポストコロナへの前のめり、DX(一路デジタル化)、自助、公共部門縮小路線等々が挙げられるが、これらの特徴はそのまま市予算にも当てはまる。国の方針言いなりに、京都でもその具体化という図式も大きな特徴である。国において僅かに35人学級を打ち出したことが唯一とも言える前向きの動きであるが、こちらは逆に市は新たに具体化しようとはしない。いずれにせよ市予算の検討に当たっても、今後とも国の予算や動向を見ておく必要がある。

4、市長曰く「コロナ禍で市民生活大変厳しい中改革に取り組むのは大変心苦しく」(1/13、第1回改革推進本部)、「…危機感を共有して展望開くことが大事。間もなく審議会から答申頂くが、しっかりした計画を立てなければならない。その為には市民の負担の増になることも事実…」(3/18予算委員会市長総括質疑での津田議員への答弁)。即ち、「改革」や「計画」について、「心苦しい」「負担増に」等と、市民にとってマイナスであると言っている。しかし一方、予算や方針の基調自体は、錦の御旗・葵の御紋の如く「改革」推進一辺倒であるから、結局これは「市民への負担増」押しつけを自認していることに他ならない。言葉の使い方が混乱している面があるというか、一部、本音が出てしまったということなのか。以前、私は、市長の「改革」は市民にとっては「改悪」であるが、これは言葉の使い方が間違っているというよりも、そもそも彼らにとっては文字通り「改革」なのであって、そこにこそ階級社会の本質があると、その感想を書いたことがあるが、正に市長陣営にとっては「改革」が正解なのである。いずれにせよその市長ご自身の言う負担増と切捨を政策の基調として進めようとするのが、今回の予算の最大の特徴と本質に他ならないと言えるのではないか。了解できるはずがない。

5、最後に強調したいのは、今予算は市民リストラだから反対だ、という単純な話だけではない。いや勿論それは全くその通りなのであるが、しかしそれ以上に私が言いたいのは、「財政危機」を強調し、そこで市民リストラだと言いながら、実際はその「危機」の総括も克服の為の努力も全く不十分だし方向も間違っているということである。本当に「危機」なのか、こそが論点であると言いたい。市長はともかく、良心的に真面目に「危機だから何とかしなければ」と思っておられる市幹部の皆さん、市職員の皆さんと、もっと議論し合いたいと心から願っている。「住民福祉の向上」と「国言いなりにならない」こととが地方自治の要だとすれば、そのいずれもが危うくなっているところに、今日の市の財政、のみならず市政全般の最大の危機が横たわっているというべきではないか。この記事のタイトルの所以である。打開の道は、世論の力や運動、議会での論戦、力関係を変えていく、そして市政の転換等々の方向が基本だが、さしあたっては、総選挙での政権交代で、例えば交付税の大幅増額や法人税の引き上げ、課税自主権拡大等々、国の政治から、京都市政や、ひいては地方自治体全般、地方自治自体の在り方を変えていくことが、当面の近道であろう。「危機」と言いながら自民党に入れているような感覚自体が、実は本当の「危機」なのではないか、と私は思う。

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