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我有り故に我思う

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」4

No.226

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」その4

= A国の税財政制度政策への批判的視点と累進的発想の欠落 =          = B自治体の、危機ならぬ変質へ =

 6月7日、市長が「行財政改革計画」(案)を発表。昨秋以来、小出しで「行財政改革」方針が出されていたが、その中で、新年度にはまとまった計画を出すと言っていたものの具体化である。「お金が無い」の部分は従来通りの展開であるが、むしろ今後の「道筋」や「改革の取組」との方針部分で、かなり踏み込んだ改悪案を具体的に打ち出している点が特徴である。一言で言って、いつも言っていることではあるが、本稿の副題Aが、まず私の評価である。同時に、個々の具体的改悪案のすさまじさとともに、総論的に言って、京都市が今以上のトンデモナイ方向に更に舵を切ったという印象を受けている。これが追加の副題Bである。
 表題「地方自治の危機」との根拠について、私は今まで、 嶌眄危機」の要因として国の税財政制度政策が大きいのに、ここへの批判的観点がない、追随が目立つ。△海隆囘世魴舁遒気擦燭泙沺∪譴藥毀韻悗寮度施策の後退や縮減、切り捨て等一辺倒へ突き進むことは「住民福祉の向上」を旨とする自治体の本旨に反する、の二点を念頭に置いてきた。しかし今回、「地方自治の危機」は、更に深化している。「危機」から「変質」へと変質しつつあるという気がしている。その印象の所以を考えてみたい。
 まず今回の「計画」は、従来にもまして、,發ΕΕ鵐競蠅垢襪曚鼻慳唄峅宗戮強調されている。「本市が抱える課題に対し、民間企業等と連携し…」「民間事業者に…ノウハウが蓄積されている業務等、積極的に民間活力を活用する必要」「民間活力導入による業務の効率化と市民サービス向上…」…。さらに、直接「民間」という表現を使わなくとも、「活性化」「PFI」等々、事実上の民間化を推進するような表現も数多い。
 しかし私の、「変質」との印象の本命は、◆惻益者負担』という、為にする論を立て、負担と給付の1:1対応をめざすという方向である。曰く「市民が受けるサービスの水準と市民負担の水準を均衡させることが原則」と、これは市財政全般と市民個人についてと、二重の意味で使われている。この趣旨は何度も出てくるし、この発想は本「計画」の基調にもなっている。私は以前から、「敬老乗車証や国保、保育料など、制度対象外の市民、被保険者でない市民、保護者でない『市民からの税金がつぎ込まれている』云々との言い方は、市民間の対立と分断を煽ると、この言い方を批判し、「市長の給与や退職金は彼が払っている税金で賄っているのか」、「動物園の運営費は入園料だけで賄っているのか。そんなことはありえない」と例示してきた。
 ところが、である。今回の「計画」では、「施設使用料も、運営費に対する割合を高めていく」「手数料は、受益者負担割合を原則100%とし…」云々とされ、その考え方として「利用する方としない方との負担の公平性をとる必要」が挙げられている。私にとっては「ありえない」ハズであった考え方の更にその先を市長は走っている。これは、分断や対立を煽るというにとどまらず、会計や財政、税金の大原則から逸脱している。総計予算主義原則や、資源配分・所得の再配分等、財政や税金・社会保障等の役割や原則への、真っ向からの挑戦である。国民の権利とそれに対応する国家の義務という公的関係を物の売買と同じような市場原理に置き換えようとするものである。「本来、給付はそれに見合う負担が伴うのに、財政を通じた給付は負担と直結しない為負担抜きを当然視してしまう。『財政錯覚』だ」として非難するのである。まさに新自由主義の具体化であり貫徹である。「危機」ならぬ「変質」との私の認識の変化の根拠は、まさにここにある。これは、「財政が危機だから」とは全く別の次元の話への、悪い意味での飛躍である。
 そもそも、「受益者負担」論自体が為にする議論であって、保育は保護者だけでなく社会全体の将来に向かっての、「益」と敢えて言うなら「益」であるし、動物園はその存在自体が、いわば文化であり公的に運営されるべきものである。高齢者の外出促進は社会全体の利益に繋がる。「障碍者を差別する社会は脆い社会」と、かつて国際障碍者年の時に言われた。これらは狭い意味での「利益」ではなく、国民の権利であり決して「益を受ける」わけではない。
 一方、敢えてもし「益」と言い張るなら、では大企業の益はどうかと私は問いたい。例えば宮本憲一教授などが常々強調され、また1975年当時、京都市自身の財政審議会も指摘されていた通り(座長は京大の池上惇先生であった)、大企業の都市集積「利益」等については、市長や、今回の行財政審議会の先生たちはなぜ触れないのか、彼らの歯牙にもかからない。「受益者負担論」は、専ら、庶民に負担を押し付ける為の、為にする議論なのである。ついでに言えば、大企業の都市集積は財政需要の増大をもたらし、この部分の負担を免れているまたは軽減されているという実態もまた大きな論点である。新自由主義は、庶民も大企業もみんな一律にレッセフェールでは大手有利で強い者勝ちだから不公平だ、というだけに留まらず、大企業や富裕層には、減税や、集積の利益擁護・負荷不問、営業環境整備などむしろ積極的な保護支援政策なのである。本「計画」でも、デジタル創造都市とかグローバル都市、「必要な規制緩和」「市街化調整区域における産業用地創出」「文化と経済の融合」「スポーツと産業分野との融合」「公園や森林の特色を生かし民間活力の更なる導入」「仮想空間においても売り上げ増加」等々といった言葉が躍っている。
 今一つ指摘したいのは、「危機」を「根拠づける」市のデータや説明の類についてであるが、「夫は妻にウソをついているわけではないかもしれないが全部を語っていない」。公債償還基金の枯渇とばかりが強調されるが、その前に、今後の収支の見通しの、もっと根拠をもった精査が必要である。そもそも予算は単年度毎に編成され議決され執行されていくものなのに、今後、「毎年○円の不足が生じ、5年間で5×○円の不足が生じる見込み」との言い方も、この単年度主義から言ってどうなのか。また各年度毎の収支についても、例えば10億円単位の項目が20にも及べば、計200億とは言っても、四捨五入で、最大100から280億までの幅があることになる。上限を設定しているのに、例えば投資的経費は、今後、何故昨年度今年度よりもずっと多くなるのであろうか。社会福祉経費の増を消費的経費等の削減で賄うとしながら、一方ではその「社会福祉経費の増加自体の抑制にも取り組む」などと言っているのである。基金に限ってみても、今後の各年度毎の返済額とそこへ向けての毎年の積立必要額のデータが出て来ず、「あるべき残高」の根拠が不明である。今年度の実際の残高のうち1/3は臨時財政対策費分であることなど、ここでも、国の責任の追及に及び腰だからなのかどうか、極めて小さくしか書かれていない。交付税減も書き流されているだけで、大問題だと本当に思っているのかどうか、疑わしめる。過去の市債発行についても、高速道路のことは全然出て来ない。「都市格向上に」「必要な投資事業でした」と言うのはちょっとはばかられるとでも思っているのであろうか。
 最後に、前から言っていることの繰り返しだが強調しておきたい。市民税の高額所得者の所得割を三位一体改革前の税率に戻す、国の法人税減税が自治体の法人市民税減収に連動しているところからこの点を国へのアクションの課題とする等々、私の提案に背を向けている限り、市民リストラはありえない。本当に「危機」を何とかしたいと思っているのか。北陸新幹線推進や油小路通地下バイパス計画も「危機」を疑わしめる。「国の財政も大変」と言っているようでは危機打開は覚束ない。そんな認識での市民リストラは筋が違うと言うべきである。国の税財政制度政策への批判と、前述の市民税率に示される累進性という二つの視点を欠落させたまま専ら市民へのリストラに突っ走るのは、はじめにリストラありきなのかとさえ思えるほどである。
 かくなるうえは、当面の課題改善の方向として、地方自治尊重の国の政府を実現し、あまり方向はよろしくないが、「上からの」改善も一つの在り方だと思う。野党共通政策や市民連合において、または「憲法を地方自治に生かそう」と思っておられる研究者の先生やその筋の関係者の皆さんたちが、「野党共闘政権に期待する自治体政策(案)」を発表され(この方式は各分野毎での関係者の皆さん方の準備と取り組みを期待したいところだが)、例えば「交付税の大幅増額、臨時財政対策債の廃止」等を掲げて頂くようにするなどのことを考えてはどうか。「野党共闘で政権交代を、新しい政権で地方自治体財政(※)危機打開を」とのスローガンはどうだろうか。京都市をはじめ全国の地方財政危機に悩む自治体関係者の皆さん、本当に悩むならその打開の方向は野党共闘にありと、心から訴えたい。少なくとも、自民党や公明党を応援しているようでは、私の前ならいざ知らず、市民の前で「お金がない」などとは言わないようにしてもらいたい、と言えば言い過ぎであろうか。「危機」がもし事実であったとしても、市民の皆さんには全く何の責任もないことだし、また国の自治体イジメは、政党で言えば自民公明政権の政策なのであるから。

 (※)なお私は、地方財政とか、まして地方議員という言い方には到底賛成できない。私はあくまでも京都市会議員であり、また全国の自治体議員一般全般を総称して言う場合でもそれは地方自治体議員であって、略すなら自治体議員である。法制度上、条例より法律が優先するのは全くその通りであるし、社会変革戦略においても羽仁五郎や「地域政党」ばりの「自治」ならぬ、一国の制度改変が根本であることは言うまでもない。国会が国権の最高機関なのである。しかし一方、来るべき将来社会においてこそ中央指令型ではなく地方自治が花開くのであり、文字通り、地元の、自治体の、その地域の住民の、代表たる議員なのである。現代の運動は、今の今の改善課題から出発しながらも、同時に未来社会のありうる方向をも、目標として設定しつつ、目指していくものでもあると思う。ちなみに、「地方」に対するこの発想は、今は亡き我が遠藤晃先生の教えから得たものである。大阪の初村尤而先生も、この遠藤説を紹介しておられる。
 話があらぬ方向へ行ってしまったが、市長の「行財政改革計画案」については、言いたいことはいろいろあるが、また他日を期したい。このホームページの議会報告ビラの欄や議会論戦欄、コラム欄等もお読み頂いてご批判賜りたい。よろしくお願いします。



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