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我有り故に我思う

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」その5  「財政危機」、「地方自治の危機」から「新自由主義自治体」へ

No.229

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」 その5
「財政危機」、「地方自治の危機」から「新自由主義自治体」へ

 一昨年の秋頃から市の財政についていろいろ考えてきたが、市長が、いよいよ本格的に「改革計画」を具体化するに及び、実践的な議会での議論に追われてきた。落ち着いて考えることを怠っているうちにあっという間に半年が過ぎてしまった。前回「その4」で市長の「行財政改革計画案」について触れたが、その後の大まかな動きは次の如くであった。
 一万件近くの市民からの意見があったにも拘わらず、6月の「案」とほとんど変わらないままその「案」が取られ、8月に「計画」となって発表。その最初の具体化が「敬老乗車証」制度の大改悪であった。その後「学童保育利用料の大幅値上げ」(利用料という言い方にも疑問があるので、以下「保育料」)へと続き、併行して民間保育園職員人件費補助金の削減が、今、その詳細を明らかにしないまま着手されようとしている。障害福祉分野での補助金削減や市営住宅家賃減免制度の見直し等々、条例改正を経ること無く、今春の2022年度予算で具体化されようとしている項目も少なくない。

 昨春も21年度予算についての感想など書き並べてきたが、もう早くも一年が経ち、また22年度予算についても、また自分なりにその評価や分析を加えて頭の整理をしてみたい。その時期がもう間近に迫っている。ただその前に、昨秋あたりから感じてきたことについて、頭の中にだけではなく、文字にして残してもおきたい。今後の市政について考える上でも何らかの参考になるかも知れないし、自分なりに交通整理もしてみたい。書くことは考えることでもある。「言語は実践的な、…現実的な意識であ」る(M・E「ドイツ・イデオロギー」)。

 そのテーマのひとつは「受益者負担論」である。かつて1960年代だったと思うが、雑誌「経済」に「受益者負担というのはイデオロギー攻撃である」との旨の論文が掲載されていたとかすかな記憶がある。間違いかもしれない。しかしその趣旨は、今、市の言い分を聞くにつけ、まことにその通りだとの感が強い。医療にしろ学費にしろ、その他社会保障関係等、そもそも「益」でも無いし、権利として無料に近づけて行くのが社会発展の方向ではないか。「応益負担」という言い方自体からの再検討が要る。社会保険の場合、それ自体も軽減を目指すべきだが保険料を払っているから、まして一部負担は「二重取り」とも言うべきである。一般の損害保険等において、給付を受ける際に負担金支払いなどという話は聞いたことがない(医療保険について、芝田英昭立教大学教授は「我が国においても…『一部負担無料化』を真剣に議論すべき」と書いておられる(自治体研究社「医療保険一部負担の根拠を追う」'19/6/25)。また仮に「益」を前提として考えた場合でも、例えば保育・学童保育の分野では市は「受益者は親」と言うが、この点について、京都保育団体連絡会会長でもある藤井伸生華頂大学教授は「保育の真の受益者は企業主」だと喝破されておられる(「住民と自治」'21/1月号)。私も議会委員会での質問で紹介・引用させて頂いたが、もとより、市理事者にとってはそんな本質的理解にはほど遠く、噛み合った答弁は返ってこない。

 さて今一つのテーマは、今回新たに表題に書き加えた通り、一連の市政の事態の本質は、財政危機というよりも地方自治の危機、そして更に、単に危機というよりも、その危機が、「新自由主義自治体」とも言うべき方向へ行こうとしている、という点についてである。意識しているかしていないうちにかは断言できないが、客観的に市長が行こうとしているのは、正にそういう自治体に他ならないとの思いに、最近、至ったという次第である。
 これまで、市の、ある事業に、「その事業の直接の対象者以外の市民からの税金が注ぎ込まれている」という市の言い分に、それは市民間に対立と分断を煽るものだと私は批判してきた。敬老乗車証然り、国民健康保険然り、学童保育料然りである。また「市民が受けるサービスの水準と負担の水準の均衡」という市の考え方についても、「例えば動物園の運営費は入園料だけで賄われている訳ではない」と反論してきたが、これについては、「いや、これからは入園料だけで賄うのだ」と市長が新たに言い出してきていることについても紹介し、市長は既に私のはるか先を走っている、私の反論は最早時代遅れだと、市長の認識の、到達点ならぬ後退点、市政の悪さ加減の水準について、新たに認識させられた経過についても紹介した(主に「4」にて)。同時に「3」の項では、二宮厚美教授の論も紹介した。曰く「『市場ではサービス享受と負担とが照応するが、財政ではこれが一致せず大衆は負担を回避したまま給付だけは享受できるかのような錯覚が生まれる。これが赤字財政のもとである。この民主主義のいきすぎ論・財政錯覚論』が、ケインズ主義批判として登場し、ここからも財政守備範囲見直し・公共への市場メカニズム適用との新自由主義へと繋がっている…」。つまり、サービスと負担を照応させようとする、1:1対応させようとする考え方を新自由主義と定義するとすれば、正に市長のめざしているのはそういう自治体であるということになる。換言すれば、照応・対応させる考え方を貫く市政をめざそうとしている、これこそ新自由主義自治体と言うべきである、ということになろうか。
 事例を挙げる。21年10月から放置自転車の撤去保管料が「変わります」とか「改定」とかと言っているが、要するに値上げが実行された。しかし更に言えばこれは、単なる値上げではない。市民しんぶんに曰く。「自転車の撤去保管にかかる経費よりも引き取りに来た者の払う保管料の方が少なく、その差額を税金で補填している。そこでその税金補填を0にするための改定」。黄金分割ならぬ、正に「サービス享受と負担との」見事な照応と言うべき着地点である。学童保育料も、値上げの幅とともに、所得による保育料から利用時間による保育料へと変更されたこともまた大問題である。これは単に応能負担から応益負担への変更などという言葉の問題に留まらない。党議員団発対市長宛て「値上げ撤回を求める」申入れ文書に、私は、この部分について「権利としての福祉から買う福祉への変質」と起案した。実は、昨年8月の「行財政改革計画」自体にも、以下のような考え方が打ち出されている。P28「公の施設使用料の総点検」と称し、全体管理運営費Bのうち使用料収入Aの「あるべき割合」を定め、そこへ向かって「使用料等を検討」する、とのことである。そのあるべき割合の最終目標はB=AでありA/B=100%と設定されうるであろう。前述の自転車撤去保管料「改定」では、既にこの「100%」が具体化されている。
 しかし更に、この発想は施設使用料に限定されない。この「総点検」の項では「施設を利用する方としない方との負担の公平性」とコメントされているが、この考えを敷衍し、制度施策全般に拡大しうることは容易に考え得ることである。一方、この制度全般への拡大は、実は、これまでの敬老乗車証にしろ学童保育料にしろ、「市民全般からの税金がいくら投入されている」と、既にさんざん強調されてきていることと同類項である。税金を投入せず、敬老乗車証負担金や保育料だけで賄うという意味でも、やはりA=Bが目標なのである。なお、この施設使用料割合の問題については、昨秋11/4付行財政局発議会総務消防委員会資料でも再度強調されているが、どういうわけか運営コスト全体をAとし、使用料収入をBとしており、今後の引用に際しては混乱のないように留意が要る。些細なことではあるが、市において、一貫性系統性に欠けるとの印象を受ける。
 前述の二宮先生のご指摘の通り、このA=Bこそが「サービス享受と負担との照応」に他ならず、市民の権利とこれを保障すべき行政との関係を、市場原理と同様の関係に置き換えようとするものであり、これが今、市長のめざしている方向、或いは行き着く先であるということができる。「新自由主義自治体」が志向されていると私が思う所以である。

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 しかしこの話にはまだ先がある。A=Bの場合、その負担を賄い得る者のみがその施設や制度施策のサービスを受けることができる。負担できない者は利用できない。弱肉強食、強い者勝ち、優勝劣敗…。一般に、自由競争の場合、持てる者と持たざる者との競争では、ハナから不公平である、平等な競争にはならない云々、大企業と中小企業然り、富裕層と庶民との競争然り、大手と中小とでは、形式的には自由競争だが実質的には公平公正な競争性は働かない、等々。しかし問題はそのレベルに留まらない。その先がある。形式的にすら対等平等、自由競争ではない。強きを「助け」弱きを「くじく」政治によって、むしろ実質的不平等を市長ら自身が助長し増進し、形式的にも不平等状態を創り出しているというところに、今日の国政と市政の大きな特徴が横たわっている。市長において、都市計画における規制緩和然り、企業立地補助金然り、ゼネコン本位の大型公共事業然り、市民税所得割における税率フラット化然り、「国の法人税減税の、市の法人市民税法人税割の減収への連動」への無批判と問題意識欠如等等、その事例は枚挙にいとまがない。新自由主義は、市場原理に基づいて、レッセフェールだ自由放任だ予定調和だ見えざる手だと言うだけでなく、その後の歴史がむしろ社会権や労働基本権を生み出し、しかもその必要性がますます高まっている今日においてむしろ逆に、持てる者応援、格差拡大を意図的政策的に推し進めているのである。京都市の「危機」の本質は狭義の「財政」にではなく、地方自治と地方自治体の「危機」であると、ずっと感じてきたしそう書いてきたが、ではその地方自治体の危機とは何ぞやと自問した場合、私は、この格差拡大政策の採用こそが、本来の地方自治体のあり方を歪める核心であるとの確信に思い至った。そして実はこのことは、結局、この論考の主題である「財政危機」の要因分析やその対処の方向の問題にも帰着することになる。
 「危機」の要因は何か。累進性的観点欠落・減税と都市大企業の集積利益への無理解等々の大手優遇、加えて国追随の交付税削減等と、市内高速道路等大型公共事業のムダ遣いや企業立地補助金等を通じた大手応援が、減収と支出増、つまり財政「危機」を招いた。
 一方、ではその打開方向はどうか。対処の方向として、専らそのしわ寄せを市民生活に押しつけ収奪を強めるとともに、その「危機」の要因である大手優遇を、むしろ「危機打開」の処方箋に書き込み、引き続く居直りで今も今後も推進しまたしようとして増幅させ、また相変わらずの国追随でますます「財政危機」を深刻化させているという現状である。「危機」打開を、口では目指しているつもりが、その方向が、大手優遇庶民劣遇、更には市場原理へ向かうことによって、ますますその「危機」深刻化の悪循環に陥っているというのが、今日の京都市の姿ではなかろうか。

 その他、「改革計画」では、民間化の強調・一層の推進や、Society5.0とかDX推進、等々とも書かれている。前者では、財政から出発してその節減節約の為というよりも、最早、そのこと自体を目的とするに至っている。大企業等に営業と活動の場と機会を提供しようとする目的である。前述のA=Bの発想を基礎としてそこから様々な制度施策施設等のバリエーションを考えれば、その担い手は公に限らなくてもよいとの方向に行くのはたやすい理屈である。後者も結局は国言いなりと大手IT企業等への営業の場の提供という意味で前者と同じ動機から出発している。Society云々については、せめてもう少し史的唯物論の勉強でもしたらどうかと言いたいがそれはともかく、これらの類の記述は、本「計画」が、財政危機打開と言いながら実はその本質は狭義の財政にはあらずということを示している。市民の権利とこれを保障すべき市長の義務という関係を、その権利でさえ営利の対象に差し出そうとする強助弱挫または助強挫弱(強きを助け弱きを挫く、との井上造語)の自治体を志向するところの「計画」に他ならない、というのがコトの本質ではなかろうか。市長が「目指している」とは私も言い難いが、客観的には、今の路線を採る限り、そういう自治体への変質転落への道に通ずるとは断言できる。この道は、必ずや市民の総反撃を受けてやがて挫折するであろうと確信する。これは歴史の必然である。 

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