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我有り故に我思う

自治体議員の立場から岸田内閣大軍拡計画に対す

No.231

 憲法の勉強をしていると、最後の方の第8章に地方自治が出てきて初めて憲法に地方自治が謳われているということに遭遇するのであるが、一般に、たとえザッとでいいから何か一応の最後まで行って全体を見渡した上で改めて各部分を見るといったような方法を採る場合、この方法を憲法に当てはめてみると、翻って、地方自治体もまた、この憲法全体の精神を貫き、具体化する存在でなければならない、というようなことに思い当たる。私にとって。なぜなら、第99条で言う「その他の公務員」には地方自治体の長や各自治体議会の議員、地方自治体公務員も含むとの解釈が通説だからであるし、私もこの説を支持する。だとすると自治体もまた、その憲法擁護尊重義務を負うところの長や議員によって運営されているからである。勿論住民主権の上に立っての代表としてであることは言うまでもないが。
 従来は、国との関係で団体自治が謳われ、自治体の運営で住民自治が謳われという流れが主流であったように思う。特に前者は、地方分権という表現で、「一括法」を前後して今も議論が続けられているが、私見では、この議論も、本当に団体自治拡充の議論になっているかといえば大いに疑問が残るし、後者の住民自治の議論はここからは全然生まれてこない。北野弘久教授は「地方自治は…現代における最も基底的な人権保障の為の法的手段」と喝破され、その為には自治体の財政自主権の裏付けが要るとの論を展開されている。これは私のバイブルにもなっており、(「税法学概論第7版」勁草書房'16/9/25)、上の私の「思い当たり」は、「分権論」とはちょっと異なる角度からの発想であり、むしろ北野教授から示唆を得たといった流れに属するものである。
 具体的に例示すると、例えば第25条後段「国は…」の「国」には、私見では地方自治体も含まれる。憲法上、「国」が主語になっている条項で、これに地方自治体を含めて解釈すれば却って不自然になるような場合を除き、広く「具体化する存在」として拡大解釈することが可能だと思う。自治体もまた「努めなければならない」と思う。第9条その他の条項で「国民」が主語の場合、勿論その「国民」には地方自治体住民をも含むことは言うまでもない。「住民」が「戦争や武力による威嚇または武力の行使」を「放棄」するというなら、また当該地方自治体もまたその住民の決意を応援し、住民と一緒に「放棄」の為に尽力しなければならないこともまた言うまでもない、と思う。住民自治の立場からいっても当然のことである。実際の地方自治体の運営においても、「社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めな」くてもよい、と解釈して運営している、されておられる訳ではない、と私は解釈したい。「財政が許せばできるだけは務めたい」と、普通は誰もが思いながら運営されておられると思う。 ただその場合、必ずしも、「務めなければならない」という訳ではない、という解釈は有り得るかも知れないが、それとて「務めなくてもよい」とは誰も思ってはおられないであろう。「務めなければならない」程度に違いはあっても、私はやはり上の私見を維持したい。国会運営やまして内閣、司法等の条項はともかくとしても、少なくとも基本的人権や戦争放棄、財政の部分など、地方自治体の運営においても、憲法の考え方が、少なくとも直接ではなくとも、参考にされ拠り所とされるのは、多いにありうる解釈だと思う。これは是非、各条項毎に、専門家の皆さんの研究テーマとして深めて頂きたいと思う。私のような素人判断ではなく。
 国が 戦争放棄だと言っているのに、ある自治体だけが、仮に、そこの長個人が軍備拡大核共有論者であったとしても、その自治体としてその自治体の予算で戦車を買い、戦闘機を買うことが許されるのかどうか、これが通常、許されないと解釈されうるのは、国と自治体の役割分担論からではなく、そもそも憲法自体に「買うことは許されない」という基調が存在するからこそであろう。自民党政府が如何にそれを踏みにじっているとしても。国がミサイル発射基地を作るのに、その周辺道路整備を自治体が賄え、といったような話が出てきた場合、その是非の議論の判断基準は、国防の役割分担論ではなく、そもそもの憲法の原則に立ち返るべきである、と私は思う。要するに、基本的人権や、とりわけ社会権の部分だけでなく、第9条もまた、私の言うところの「地方自治体もまた、この憲法全体の精神を貫き、具体化する存在でなければならない」の対象として位置付けられなければならないと思う、という次第である。
 纐纈厚教授によると、政治家の責任は「戦争をさせないことが最大最高の仕事」、政治家は「戦争にならない国家…にする任務」とのことであり(「ロシアのウクライナ侵略と日本の安全保障」日本機関紙出版センター'22/11/10)、この説からすると、私も政治家の一員であり、しかも憲法尊重擁護義務を負っている一員であり、加えて上の私見解釈によるところの「憲法尊重擁護義務を負う自治体の、その自治体政府の団体意思の決定」の担い手の一員であるところから、二重三重に、この「最大最高の仕事、任務」を負っているということになる。即ち、私は、憲法の大原則に基づいて、私の思想信条ではなくて、イヤ勿論それはそうなんだけれどもその前に議会の一員としての立場からいって、「戦争をさせない」任務を負っていることになる。それは、京都市議会をして、というに留まらず、戦争をするしないの権限を持つ国会において、という意味をも含む。勿論それは、私は国会議員ではないから国会の場においてという意味ではなくて、国会の外から、そういう国会を許さないという意味で。
 ちなみに、私は「地方議会」とか「地方議員」という言い方には意見がある。一般的横断的に言う場合、地方自治体議会、地方自治体議員と言うべきであって、これらを略すなら、自治体議会であり自治体議員である。まして個別に言うときは、私は京都市会議員であって、断じて地方議員ではない。これは、今はなき、京都市職労出身、立命館大学の遠藤晃先生の教えから私なりに学んだ到達である(「財政分析に強くなる」自治体研究社 '90/8/5)。財政の本を書いておられる大阪の初村尤而さんも、遠藤先生から学んだと書かれています。「遠藤先生は『地方財政』という言い方は自治の思想がボケた言い方だと言われています。…私は遠藤先生の境地にはほ遠く…未熟なものですが、それでも遠藤先生の本は今も私の座右の書です」(「新版自治体の財政」自治体研究社'19/4/30)。私井上にとっては、これらは2冊とも座右の書で、だから私は、お二人の先生から二重に学んだことになります。

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