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我有り故に我思う

「財政危機」ならぬ「地方自治の危機」 その7「財政危機」その正体見たり何とやら

No.232

 昨年暮れから今日に至る時期に、事態が大きく動いた。2月初旬、市長から'23年度予算が発表されたが、「収支均衡を達成」とのこと。つまり基金から借りたり、特別の市債の発行等をせずに予算が組めたというのである。理由として、 檻運Π削減や 檻下益者負担・市独自施策の見直し、∋埓納入の増、資産売却等、C亙交付税の増額、を挙げている。特に 檻欧砲弔い討蓮◆峪毀韻粒様の御理解と御負担をいただきました」「心より感謝を申し上げます」とも述べている。市民へのしわ寄せ押しつけについては誰も「御理解いただいて」いないし、まして「心より感謝」されても片腹痛い、とはこのことだ。前年度決算では予算より200億円増収、今年度も、昨秋の時点で30億、今回予算議案と同じ提出の補正予算でも一般財源から89億円を充てるとしていること等からも、大幅に当初予算見込みより増収となっていることは明らかであるから、その兆候はあったとは言うべきではあろうが、それでもやはり第一印象として「ビックリ仰天」という向きが大方であったろうと思われる。私も、市長の予算発表について、十分な予測を立ててこなかった、毎日の雑事に追われてそこへの余裕が十分になかった、漫然と予算発表を待っていたという点で不明を恥じなければならないが、ともあれ、結果として以上のような発表であった。本来ならこの時点で、しっかり分析すべきだが、これまた、その予算への本格的対応が始まったために、結局は、これまた毎日の予算委員会の準備等に追われてしまい、ようやく、今に至っているという経過である。とりあえず、その時々の分析と評価の一端は、毎週発行の「議会報告ビラ」(井上HPに掲載)に書いてきたが、本コラム覧では、それも振り返りながら、今の時点での市の財政についての評価を試みたい。思い付き的になるが、とりあえず書き進めることが考えを整理することになっていくと思われるので、まず実践、という発想で行きたい。

 とりあえず、市の「財政好転」については、特に収入の過小見積もりをはじめ、「危機」の誇大広告であったことと、市民リストラの彼らなりの「成果」が得られたということであろう。「危機」を理由にした市民犠牲の上に、今回の「好転」に至ったと、一言では言えるのではないか。市税収入の対当初予算比増については、前述の通り元々過小見積もりであったこととともに、税収増自体は事実であり、これをもって市長は「市民所得の向上」との趣旨の評価をしているが、これは私に言わせれば没階級的評価でしかない。市の「予算概要」でさえ、「依然、法人市民税収は、一部事業者への偏りが大きい」と書いている。市の「税務統計」によると、'21年度の数字であるが、資本金10億円超の大企業は法人税割課税対象企業の僅か3.9%なのに納付税金額の68%を払っている。均等割を払う法人のうち法人税割も払うのは、僅か32%にしかならない。68%の法人が、法人税割を納めるだけの利益を得ていない現状なのである。個人市民税についても、私の計算では、課税所得700万円超の市民は4.9%しかいないが税金納付は30.1%となっている。多数を占める庶民はそれだけの税金を納める余裕がない。「市民税が増えた」と言われても実感が湧かないのも当然である。ちなみに、市民所得を低所得階層から高所得層へ分割していくと、これも私の計算では、その所得格差は実に181倍にもなる(井上議会報告ニュース'22/11/13付)。棒グラフで比較すれば1cmと181cmというものである。
 交付税増加とも書いているが、これは'22年度から'23年度予算にかけて、確かに534億円から641億円と109億増えているが、臨時財政対策債は299から171へと、128億も減っているから、全体としては833から812億円へと21億円減っている。交付税と臨財債は一体のものとの考え方からすれば、今回、それらの各割合が大きく変わったのは好ましいことだとは言え、「好転」の理由として「交付税増」を挙げるのには少々疑問が残る。

 ここ数年の市の「財政危機」について、「危機は危機でその限りでは事実」なのか、それとも口実なのか、まして「市長は『危機』を演出している」のか、ずっと考え続けてきたが、紋切型の批判ではなく客観的な事実に基づく批判との立場に立てば、現象としての「財政危機」は事実は事実であろう。しかしその「危機」は、一方で市役所改築に際してのゼストへの地下通路や「茶室」の設置、少々古い話になるがJR梅小路西駅横の横断陸橋、これからのこととはいえ北陸新幹線や油小路地下バイパストンネル等々のムダ遣い予定と、一方での「集めるべきところから集めない」税収の「空洞化」を棚にあげたままでの、架空の「危機」とも言うべき代物である。「空洞化」はずっと私の指摘の通り、ゞ睛参歙任陵ザ、∋毀雲芭┐離侫薀奪伐修砲茲觜盂杤蠧聖毀韻料蠡佚大幅減税、9颪遼/誉納村租大幅減税が地方自治体法人市民税法人税割の大幅減収に連動、等が挙げられる。要するにこういう支出減と収入増への何らの努力もしないままの「危機」は、その打開への努力を放棄しているという意味では「危機」ではない、と言い得ると思う。精一杯努力してなお果たせない現状ならばこそ「危機」と言えるが、その努力方向については検討だにしない現状である。「危機」は(現象的には)「危機」ではあるが(その打開への努力をしないという意味では)「危機」ではない、とでも言えようか。しかしある意味、大局的には、今日の全国的な地方自治体財政危機(地方財政と言わないのは、「地方議会」とか「地方議員」等々の言い方への私なりの批判があるからであるが、それは別のところでも書いたので個々では省略したい)は、自民党政府の税財政制度政策を原因として、各地方自治体に押しつけられていることは明白な事実であるから、そういう意味では明確な「危機」である。だからこそ私は従来から、今日の地方自治体財政危機打開の為には自民党政府の税財政制度政策への批判的視点抜きには語り得ないと言い続けている。
また一方、例えば前年度決算の超過収入の使途については、「返済しすぎ」とも言ってきた。これは、住宅ローン返済中の家庭に例えるとすると、ある日、思わぬ収入があった場合、それを大口返済に充てて残高を少しでも減らす為に使うのか、成程そうすれば安心の度合いは増すかも知れないし利子負担は減るかも知れないが、一方、借金というものは定額を定期的に返していけばやがて計画通りの年月で完済しうる、とも言える。どちらを採るかと考える場合、その家計の現状はどうかということである。一方で敬老乗車証改悪やヘルスピア廃止等、市民へしわ寄せしながらの大口返済はあり得ない。子どもがお腹をすかし小遣いを減らされているのに返済優先の選択肢はないであろう。改悪を元に戻し、腹一杯食事を提供して尚且つ余裕があれば、という話だと思う。ちなみに、前述の「危機問答」を、この家庭の例に例えると、親「家計危機だから小遣い減らす」、子「家計にムダがないか点検を。職場での賃上げ運動に、例え結果が伴わなくとも全力を。そういう努力抜きに減らすのはダメだ」といったようなことであろうか。

議会の中に目を転じると、ウチ以外の各党の主張は、おおむね、市長の「危機」論に乗った形で、「危機の現状をもっと市民に広報すべし、見える化すべし」というものである。京都党や維新の会では、敬老乗車証の負担金値上げの市長提案以上の上げ幅提案に象徴される如く、市民リストラ推進の立場であるし、ことある毎に公務員の人件費云々、というのはいかにも聞き苦しい。自民党の場合は、ある意味で、まだ商店街や中小企業等々の意向を聞かない訳にはいかない立場があろうが、上の彼等は、そういう意味で遠慮がない。ともあれ、いずれも、この間の市民へのしわ寄せには悉く賛成してきていることはいうまでもない。自民公明民主に至っては、いわば「何でも賛成」が常態化している(もっとも彼等に言わせれば、それは事前に調整済みの事を市長が提案するから賛成は当たり前の事だとの論かも知れないが)。いずれにせよそんなことで、議会での立場の逆方向は明確である。
今後の立場で言えば、市長と我が党以外の基本的論調は、「今はたまたま好転したが、来年以降、またどうなるか分からない」というものである。従来から、無批判的に「財政危機」を強調してきた彼等こそ、今回の「好転」に一番ビックリかも知れないし、その評価に一番戸惑っているかも知れない。そこで「今後不明」としか言いようがないのが実際のところではないだろうか。私に言わせれば、これは事実に即さない「危機」の独り歩き、「危機」の枕詞とでも言うべきもので、特に京都党や維新などは、「万年財政危機論」「永続財政危機論」とでも言えるような、「危機」自体が自分たちの存在意義の前提と思っているようなフシが感じられる。「改革」=「改悪」という意味で、万年改革論、永続改革論とも言うべき代物だと私は思っている。

 さてそんなことで、「財政危機」をめぐる私の迷える徘徊、行きつ戻りつの彷徨、青春の蹉跌は一体どこまで続くのかと思っていた矢先、思わぬ大発見に遭遇した。市長が今議会に提案している「行財政運営推進条例」の議案説明書に曰く「都市の成長戦略を加速させる為、引き続き、改革の継続と成長により、財源を確保していくことが重要」。これを要するに逆に読み直せば「財源確保は成長戦略の為」。成長戦略と言えば その本質は大企業本位の京都へ(3/13の予算委員会市長総括質疑で岡田副市長は「成長戦略とは市民生活を豊かにすること」と答弁されていたが、これはどう考えてもムリがあるし、こじつけである。市長の予算説明要旨でも「新たな価値を創造する都市の成長戦略を推進」とあるし、また何よりも「成長」とは財界の総本山経団連の方針書の表題「新成長戦略」なのであるから、仮に引用者が別の意味を持たせようと思っても、それは原典の意味や趣旨と同じ立場からのものであるとの想定は免れない。皮肉の意味で「」等を付けない限り、違う意味で使っているとは、聴く方は思わないし、また思えないものである。市民生活云々と言うのなら、成長などと言わずに、ごく素直にそう言えばいいだけの話でしかない)ということに他ならない。要するに成長とは、アベ元首相流に言えば「京都を大企業が一番活動し易い都市にする」という事に他ならない、と私は思う。要するに、そういうことの為に今後とも財源が要るという、これは表明であり告白である。
規制緩和をして大企業などの利益増大を応援する京都のまちづくりの為にこそ、財源が要る、市民への諸改悪おしつけ=市民サービス切捨ては、お金がないからではなく=「財政危機」がその理由だからではなく、大企業などの利益増大を応援する京都のまちづくり=まちこわしの為にこそ、ということが、ここへきて明らかになった、本音が出た、ということであろう。「『財政危機』その正体見たり何とやら」との表題の所以である。

とりあえず。いろんな角度からの議論の為にも、何としても引き続き議会へ行かなければならない。


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