市の東吉祥院公園廃止、給食センター化に対する意見書
No.688
門川市長が、同公園を廃止して超大型給食工場を建てると言っています。これに反対する、私自身の「意見書」です。
東吉祥院公園の都市計画変更案に対する意見書
2024 年 2 月 14 日
京都市長 宛
〒601-8477京都市南区八条源町106-17
井上 けんじ
私は、東吉祥院公園の廃止に反対です。以下、その理由を述べます。
第一に、廃止の提案に至る経過に疑義があります。昭和35年に開園、同38年から教育委員会が使用、今般その役割を終えるに至った、との経過からいえば、まず公園に戻したうえで、今後の活用方向について、市民的な議論を経て決めるべきだと思います。手続き的には、昭和38年、市長か誰かが、目的外使用を許可をしたと思われますが、ならば今回、その使用をいつ誰が取り消したのかそれとも取り消さないままなのか、その経過が全く不明です。昨年11月22日に同公園の「廃止について」との地元説明会なるものが開かれましたが、この説明会自体が、一連の不可解な経過を象徴するものでした。流れから言えば、長年、公園を借りていた立場の教育委員会が、本来、公園を管理する市長(または一般的には建設局だと思われますが、今事例では「スポーツ公園」との理由で文化市民局とされています。この経過も詳細は明らかにされていません)に返却し、それを受けた市長部局が今後の活用を考えるというのがスジでしょう。仮に百歩譲って、その際、その今後の活用として給食センターを市長と市教委が決めていたとしても、「廃止について」との説明会であるならば、その廃止の権限と市民への説明の責任は、教育委員会から返してもらった市長か文化市民局であるはずです。「長い間お借りしていましたが今般、返却します」というはずの立場の教育委員会の、一体どこに、市民に公園の「廃止」を説明する権限があるのか(ちなみに私は、教育委員会の「借用」を否定的に振り返っている訳では決してありません。むしろ積極的な教育的役割を果たしてきたと思っています)。教育委員会だけの出席では「廃止」の説明になっていません。なりようがありません。今般の縦覧書では、既に昨年11月30日に同公園は「廃止されている」とされていますが、これも、誰がどういう手続きで廃止したのかの説明はありません。「都市公園法に基づき」とされてはいますが、一連の流れの一つにすぎない手続きを、あたかも全て終わってしまったかのような言い方は不親切で説明不足で、意図的です。「廃止されている」なら、では今回の意見書の手続きは一体何なのかと、文脈上からも思ってしまうわけです。「12月まで高校生が使用」との説明でしたが、ならば、この12月1日以降は、同土地はどういう性格の場所だったのでしょうか。22日の説明会では、「他に代替公園を確保すれば廃止できる」と「都市公園法16条」とやらが紹介されていましたが、そもそも同法では「みだりに廃止してはならない」のが大原則であって、しかもこれは廃止の要件であって手続きを説明したものではない。一体誰が、休憩や防災上、伏見の「代替」公園まで行くのか。「代わるべき」公園たり得ない。ちなみにこの説明会資料では「16条2項」と書かれていましたが、厳密に言えば同条には2号はあるが2項はありません。法律の紹介としては失格であり、公的な説明会としては差し戻しです。とはいえより本質的には、「返却を受け、且つ廃止の権限を持つ」者の出席による説明会を開き直すべきです。スポーツであれ憩いの場であれ京都市では対人口比公園面積が未だ未だ少なく、神社やお寺の境内にいわば「おんぶ」しているだけで、公園面積拡大は引き続き市の大きな課題のひとつのハズです。野球やソフトボール、サッカーやラグビー等の球技のみならずスポーツの場や機会はもっと拡大されて然るべきであるし、また緑地公園であったり距離の分かるジョギング公園であったり、憩いやつどいの場としての公園は、これからの時代、更に必要になっていくと思われます。防災公園としては、今もそう位置付けられていると思います。一方、南区には文化会館がないなど文化芸術関連施設が少なく、これは全市的にも偏在の傾向です。仮に百歩譲って公園を廃止して文化施設という方向を考えるにしても、まずここは一旦公園に戻した上で市民的に今後の議論を、というのが私の立場です。少なくとも、借りていた土地を返しもせずその手続きも曖昧なまま引き続き使うから本来機能は廃止だなどというのは余りにも乱暴です。ついでに言えば、この日、「センターの配送が遅れて昼食時間までに間に合わなければ」との質問には、これは文字通り教育委員会が答えるべき出番でしたが、何と「午後の授業の休止」も選択肢にあるとの答弁で、参加者が一番驚いた場面でした。
第二に、公園廃止の理由とされている「給食センター」整備との方針に至る手続きについての疑問です。これにもいくつかの段階があり、段落で分けてみます。
昨秋来、或いはそれ以前から、給食の調理・提供の方式については様々な議論がありました。私もそう思ってきましたが、中学校給食の実現を求めてきた市民は、当然の前提として、或いは給食実現が明らかになった直後から、自校方式または近隣の小学校との連携による親子方式などを提案されてこられました。そういう主張があったことは市も市教委も百も承知であり、センター方式以外の諸方式について、各中学校毎の個別の条件や可能性についての検討も、市教委自身もされてきた通りです。然るに、今回の縦覧書では、「中学校給食への対応が必要となり」「持続可能で最適な実施方式」として「センター方式を導入」と書かれているだけで、「給食実現の可否」と、「その方式」についての議論が意図的に混同されています。前者は既に決着済みの話しであり、後者が最大の論点になっているにも拘わらず、その根拠や説明抜きに「持続可能で最適」との主観を述べているだけで、これでは全く「理由書」としての「理由」になっていないと思います。
この問題を遡れば、そもそも今回のセンター方式を打ち出した委託会社の報告自体、主要には、食数とか事業費とか、勿論それらは必要な検討材料であることは当然ですが、いわばハード面が中心で、肝心の教育や食育といった面からのアプローチが非常に弱いように思えます。それ以前の市教委自身の調査とも異なっているなど、当時からこれらは問題にされてきたことです。昨年10月中旬、様々な意見がありながら検討会議で「センター方式」が打ち出され、その直後の19日、議会での「塔南高跡地が有力」との市長答弁、委託会社の報告書の日付けが10月31日であり、翌11月8日には教育委員会の「基本的な考え方」が示されています。同13日の日付で「公園廃止に関する説明会について」との教育委員会発信のチラシが「近隣のみなさま」宛て、配布され、22日には、前述の通り「廃止」と、センター設置の為、とのその理由の説明会開催と続きます。ちなみに、より正確に言えば、この日の「公園の廃止について」との「説明会資料」では、「跡地について…公用、及び、民間活用を含めて有効活用を検討している」と書きながら、その続きに今度は「給食センターについて…跡地に整備する計画としています。…第1グランドに整備予定」と結論付けています。長期間に渡って中学校給食自体に後ろ向きであった市と市教委にとって、特に昨秋からの動きの速さは異例中の異例と言わなければなりません。そのことは、例えば、昨秋11月9日付「京都新聞」の「消極一転 スピード決定」との見出しにもある通りです。余りにも拙速と言うか、早くから結論ありきだったのかとの疑問が最早疑問ではないかのような経過を辿っています。
今般、市長選挙の投票日が2月4日でした。新しく選ばれる市長の姿勢次第で今後の方針が変更される可能性もあった中で、なぜ同1日からの縦覧開始だったのか。任期終了間際の長が、その大半が次期市長の元での事業でありながら、ドサクサに紛れて自身の方針をゴリ押ししたとしか思えないような時期設定であったと思います。当選した松井氏でさえ、「センター方式を現実的に考えていかざるを得ない」('23/12/21付「京都新聞」)と消去法的なお考えであり、しかも「急ぐべき」とも言われています。ならば年次計画で可能なところから着手していくという方法も、順次とはいえ急ぐとの要請に応える道ではないかとも思えます。選挙結果を受けてから縦覧を初めても、一体何日遅れるというのであったでしょうか。加えて、議会でもセンター化への、賛否両方向からの複数の請願が出されていますが、いずれも継続審議となっています。市民の意向とともに、その代表である議会の議論経過をも無視軽視するやり方はいかがなものであろうかと思いますが。
更に言えば、そもそも今般の都市計画審議会では何をどこまで議論するのか。「公園の廃止」が賛否の対象になるというのは議題としては理解できますが、では「当地での給食センター整備」は賛否の対象になるのかどうか。そんなことを同審議会が議論する権限があるのかどうか。これは教育の問題です。公園の必要性の有無については大いに議論願いたい。またその必要性の程度を考える判断材料も確かに要るでしょう。しかし仮に、公園自体の必要性は一定程度あるとしても、それ以上に、その場所での給食センターの必要性が大きいという判断があるとすれば、その大小の判断は、最早、都市計画審議会の範疇と言えるのでしょうか。公園自体の必要性の判断より廃止後の活用方法が優先されることにならないかどうか。勿論、都市計画についてはもとより、他の各分野についてもそれぞれの見識を持っておられる各委員の先生方のご判断ですから、当然、給食センターの是非についてもお考え頂くことになるでしょう。しかし、「廃止」議案の賛否議決結果が、センター自体の設置の可否について、京都市としての団体意思の決定に直結するのかどうか、この点は、審議会での採決に先立って、是非ともハッキリさせておいて頂きたいと思います。
第三に、センター方式そのものへの疑問です。「廃止」の「理由」とされている以上、この問題についても触れない訳にはいきません。
まず、大規模な「工場・事業所」の設置、及びそこに出入りする人や車の時間帯や数が、近隣に与える影響です。食事や食器の配送車等が、隣の小学校の生徒の通学に与える影響はどうか。勿論、近隣の住環境全般への影響が総合的に検討されなければなりません。建物の規模にもよるでしょう。まず建設・設置ありきの前に、影響が大きいならば計画撤回の可能性も含めたうえで、先に、計画概要をもっと情報公開すべきだと思います。
とはいえ、今回の問題の本質は、「教育の一環としての給食」「子どもたちの生活と権利を守る、向上拡大発展させる、その一翼を担う給食」の捉え方であろうとか思われます。三点ほどの角度から考えてみたいと思います。
まず何と言っても美味しさや作りたて、温かさ、等々、食事そのものの質の違いは、自校とセンターとでは決定的に違うでしょう。配送の時間を考えれば調理時間が短くなるのは避けられませんし、天ぷらの揚げた後、ゆがいた後、等の時間の違いからも食感が違ってくるでしょう。調味料をいつの時期に入れるかによっても違ってきますし、そういうことは、食事の直前まで調理できる条件とか時間のある方が、よりおいしく、より、その学校の生徒たちに合った献立や調理方法を採ることができる、その幅が広いことはいうまでもないでしょう。献立や食材の選択から調理過程、アレルギー対策、栄養職員の配置状況、等等、センターより自校方式の方がいいと、私は思います。
更に、学校給食法や食育基本法に照らせば、これらの法律で謳われている理念は、調理の現場やそこで働く調理員さんたちの姿が見えることによって、また身近に栄養教諭の先生がおられることによって、より具体化されていくことでしょう。朝食抜きや夏休み明けの体重減等々、児童の貧困が社会問題にもなっている今日、現物給付としての給食の提供は(私は憲法でいう教育の無償化は給食代も含まれると考えています)、狭い意味での空腹を満たすという役割は勿論ですが、むしろそこに止まらず、必要で重要な教育の一環であると思います。食材の生産者である農漁民の人たちや、調理する人たちのことを考え、自身や友だちの成長や発達、栄養や健康のことを考える生きた教材にもなっていると思います。これらのことは、調理や運搬、配食等々、材料の仕入れから実際の食事に至る一連の過程が身近にあり身近に感じられるからこそであって、センター方式では、今食べている食事が、どのように作られてきたのかの経過や実感が、全然伴わないということになるのではと危惧します。
ハード面というか、財政や時期の問題にしても、大規模工場の建設と、何よりも食事や食器等の配送にかかるランニングコストを考えると、単純にセンターの方が安いと言えるかどうか、精査が必要だと思いますし、時期も、建設に至る一連の過程を考えると、できるところから着手していった方が、勿論、後先はありますが、早い場合もあるでしょう。児童数が減っていますから、スペース的に余地も有り得ると、この面でも個別具体的な再検討が求められると思います。各厨房の建設や既存施設の改修は、身近な建築業者への仕事の提供にもなるでしょう。また食材の仕入れや搬入も、より身近な生産者や商店からの納品が可能です。 いろいろな意見があります。だからこそ拙速な結論ではなく、もっと市民的な議論が要ると思うのです。それこそ、中学校毎に、生徒会で話し合って、と投げかけるのも教育的効果抜群だと思いますが如何でしょう。安直な結論は避けて頂きたい。よろしくお願いします。