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活動日誌

「公園廃止」取消し裁判陳述書(案)

No.695

 2月4日に2回目の裁判があります。弁護士の先生から「陳述」するようにご指導があり、私が原稿だけ起案しました。以下に記載します。実際の陳述者は別の方ですので、勿論、その人なりに言いやすいように書き直してもらいます。また時間の関係でもっと短くはなりますが。

2025/2/4裁判での訴え(井上起案)    2025年1月24日
            南区東吉祥院公園廃止と大型給食センターを考える会

1、今回の裁判は、直接的には公園廃止の違法性を問いその取消を求めるものですが、京都市では、その廃止の理由として、公園自体の必要性の判断からというよりも、専ら、中学校給食の大型調理工場の敷地に充てる為であると、説明会や都市計画審議会理由書などで繰り返し強調されてきました。従って、廃止自体の違法性や是非の独自の議論とともに、その議論を深める為にも、その大規模給食工場の建設と運営が、貴重な公園を廃止してまで強行されなければならないものかどうか、この点についての議論・検討も避けるわけにはいきません。とは言っても、私たち原告団は、中学校給食自体に批判的な立場では決してなく、むしろ逆に、長年、中学校給食の早期実現を市に求めてきた市民団体とも連携しています。方法として、小学校のような自校での、または近隣の学校での調理方式を前提としての早期実現への願いだった訳です。一方、京都市は、長年、親が作って当然という愛情弁当論に固執し、全国や京都府内での動きから大幅に遅れ、ようやく2年前にやっと重い腰を挙げました。ところが、私達も喜んだ矢先、何と、市立全63校分2万6千食を一括して調理する大型給食工場方式を掲げ、その為に公園を廃止も発表した、という経過です。工場方式自体の市民的検証も抜きに、工場をあたかも既成事実の如く、当然の前提として、工場方式とほぼ同時期に相前後して、公園廃止も発表しました。一昨年11/22の説明会資料では、「工業地域であり…民間活用を含め有効活用を検討している」と冒頭、掲げながら、続けて、給食センターを建てる、その為に公園を廃止する、といった内容で、検討どころか、結論押しつけにの説明会でした。本来なら、長年、公園を教育委員会に貸していた立場の市長部局から説明すべき廃止との方針が、借りていたハズの教育委員会だけの出席で強行されるという異常な説明会でした。「所管所属と協議のうえで」と答弁書は言っていますが(P19)、より丁寧な説明をと思えば、一緒に出席した方が、より市民的なのは当然です。「敢えて出席の必要はなかった」との言い分でしょうが、逆に「敢えて意識的に欠席する積極的な理由は全くなかった」と言うべきでしょう。これは、今にして思えば、廃止を既成事実とした上での、給食工場ありきの方針押しつけの説明会というのが、市と市教委の本音だったからではないでしょうか。
2、説明会資料や都市計画審議会提案説明書でも、長年の重い腰への総括も反省も抜きに、「中学校給食への対応が必要となり」としか言わないにも拘わらず、逆に、さて必要となったから、だから大型工場だと、センターの根拠については、「持続可能で最適」という理由にならない理由だけで、自校かセンターか、との論点は意図的に避けています。と言うより、センター方式の、食育の観点からの積極的な教育的意義については、語ることができないからでしょう。
3、この間の議会の様子を見ても、「食感はどうか、温かさはどうか、アレルギー対策はどうか、配送時間の遅延はどうか」等々の議員の質問に対し、「それは対策をしているから大丈夫、それは心配ご無用」等々、いわば受け身の答弁、心配打ち消しの答弁であって、市教委から、センター化・工場化の積極的な意義を訴える答弁や見解があまり聞こえてこないような印象です。公園廃止の理由が給食工場建設の為と言うなら、その廃止の根拠付けの為にも、市なりの工場方式の意義がもっと強調されて然るべきですが、少なくとも今回の答弁書の現段階までは、積極的な主張はありません。それとも、自校方式の場合の人件費や各学校での厨房の建設費や運営費等、財政面からの制約が工場方式の理由なのでしょうか。仮にそうだとしてももっと精査が必要だし、そもそも財政と教育的意義についての議論も必要です。
4、その後に一部手直しされつつあるとはいえ、大量の一括調理とその運搬となれば、温かさ、おいしさ、食感等が損なわれないかどうか、配送の手間と時間、食中毒リスクやアレルギーへの個別対策、等々、自校方式に見劣りするのは明らかです。何よりも調理の過程が身近に実感できる、匂ってくる、創ってくれる調理員さんの仕事や顔が見える、時には会話もできる、お礼も感想も言える等々、自校または親子方式等、生徒たちの身近な場所での調理の優位性はあまりにも明白だと思います。自分たちで配膳することの教育的意義も強調されるべきですが、この意義も、どこかから運ばれてくる給食よりも、その調理過程を実感している給食の方がずっと大きいでしょう。自校かセンターか、その方式についての教育的観点からの議論がもっと必要だと思います。
5、では京都市において、教育的観点以外の判断要素とは何でしょうか。前述で、塔南高校跡地の「民間活用」云々との市の説明を紹介しましたが、教育という最も公共性の高い分野において、=それは教育の一環としての給食も全く同様だと思いますが=、でさえも、今日、公務の民間化という動きが顕著であり、市民に奉仕すべき公けの仕事が民間の営利事業の対象に拡げられる事例が増えています。工場のその後の動きについても、果たして、そもそもの計画立案から始まって、設計・建設・運営等々、事業全体が、民間営利企業に委ねられようとしています。そもそもの給食方式自体のあり方も、もとはといえば民間企業の調査研究に委ねたところから出発していました。「センターありき」は実は「最初に民間ありき」だったのかなとも思えます。実際、再三紹介している一昨年秋の公園廃止説明会資料の末尾では、「給食センター…をはじめ産業振興…に資する活用となるよう、引き続き…最大限有効活用できるよう検討…。」と結ばれており、給食センターのみならず、産業振興に民間最大有効活用」へ「貴重な場所」だと強調しています。市にとっては、もとより、給食センターは市立市営でないことは既定の方針だと言うべきでしょう。
6、また一方で、給食のセンター化方式は、実は政府文科省の方針です。各地方自治体教育委員会に押しつけているのか自治体が追随しているのか、どちらにせよ、全国的にもセンター方式、工場方式が広がっている現状があります。制度として国の法令に従うべき面と、地方自治が生かされうる部分とは区別されるべきだと思います。また何かにつけ、教育や福祉の分野では財政云々が強調されますが、一方で国の軍事費等についての話の折には、その規模も桁違いなのに財政の話はそれほどは出てきません。「財政危機」一般と言うより、配分上の軽視と言うべきです。有名な生活保護裁判の朝日訴訟判決では、生活水準の話ですが「国の予算の配分によって左右されるべきではない」と謳われています。
7、災害時の広域避難場所としての機能の剥奪・喪失も大問題です。答弁書では、「廃止したからといって…権利利益に影響が及ばない」(P'7)とか、「廃止後も引き続き避難場所として指定、想定」(P9・15)等々と書かれていますが、大型工場が建設されれば、避難場所としての機能が失われるのは当然です。廃止と指定との時間差のことを言っておられるのか、それとも給食工場自体を避難所にできるとの主張なのか、判然としませんが、前者なら時間の問題ですし、後者なら、では本来の調理機能はどうなるのかという問題にぶつかるります。災害多発の時代、避難場所を減らすなどとはもってのほかです。同時に、自校方式にしておけば、万が一の災害時、各学校での地域毎の食事提供機能の発揮が大きな役割を果たすのではないでしょうか。
8、その他、各学校での厨房建設や、運用後の食材仕入れ等地元での発注や調達等との地域経済への貢献も、自校方式ならではと言えると思います。
9、中学校給食実現への、特に先生たちへの負担増が懸念されますが、これはその背景に、現時点での日常の多忙さがあると私は思います。「不当な支配」をなくし、自主性と学校現場自治を尊重し、何よりも増員と一層の少人数学級が必要です。残業手当の一律増額は長時間労働押しつけで、長時間労働自体を減らすなくす方向が必要だと思います。全体として教育予算の抜本的増額が必要であると、中学校給食実現にあたり、改めて痛感します。
10、工場から運ばれてくる給食が本当に美味しいと思えるかどうか、どういう方式がいいか、生徒たちに自主的自治的に意見を出し合って声を挙げてもらう、生徒会へのそういう呼びかけは、とても教育的だと思います。生徒や親の声ももっと聴くべきです。
11、公園廃止に違法性はない、との市の答弁・主張は、確かに「訴えられた側」での反論ですが、市にとっても、廃止自体の必然性や積極的な理由があるわけではないと思われます。廃止しても問題はないという消極的な立場は、他に廃止の理由があるからこその反論と言うか弁解であって、その理由がなくなれば、市にとっても、敢えて廃止して市民に負担を押しつけなくてもいいはずの話であります。自校または親子方式などにすれば、そもそもの公園廃止の理由がなくなります。前提が崩れます。今からでも遅くはありません。市長の英断を求めるとともに、この裁判でも、給食方式についての積極的な答弁を期待して陳述を終わります。 

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